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カテゴリ:文学その他

 市谷で自決する6年前に三島由紀夫が書いた、『私の遍歴時代』 というタイトルのなかば自伝風のエッセーは、次のように始まっている。

 小説家として暮らしている今になってみると、むかし少年時代の私が、何が何でも小説家になりたいと思っていたのは、実に奇態な欲望だったと思い当たる。こんな欲望は、決して美しいものでもロマンチックなものでもなく、ようするに少年の心がおぼろげに予感し、かつ怖れていた、自分自身の存在の社会的不適応によるのであろう。今とちがって、小説家になれば金持ちになるから、などという空想はありえなかった。


 ここには、おそらくなんの嘘もないだろう。肉体や現実よりも先に言葉を獲得し、遅れて肉体を持ったときには、「その肉体は言うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた」(太陽と鉄)と回想しているような早熟の少年にとって、自分がぎこちない肉体を持ち、言葉によっては支配できない現実の中に生き、現実に拘束されていることは、たぶんとても耐え難いことであったに違いない。

 だとすれば、彼が戦争末期を振り返って、「自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致した、まれに見る時代であった」 と言っているのも、じゅうぶんに理解できる。そこには、たしかに彼自身言っているように、いくらかの過去の美化が混じってはいるかもしれない。だが、なんといっても、「世界はわれとともに滅びるべし」というのは、今も昔も変わらぬ、ロマン主義者が夢見る最大の夢なのである。

 しかし、「世界の破滅」 という夢が未発におわったとき、この浪漫派かぶれの早熟な少年にとって、「不幸は、終戦とともに、突然私を襲ってきた」。少年はいっときの夢から覚めて、つらい現実の中で生きていかねばならない。

 幸運にも、この少年は感じやすい自我とともに、不釣合いなほどに強い意志を持っていた。だが不幸なことに、その意志にはかんじんなものが欠けていた。そのうえ、鈍重な現実によって鍛えられる前に、時代の寵児となってしまうほどの才能を持ち合わせていた。そのことも、おそらくは彼にとって不幸なことだったと言えるだろう。

 売れっ子となった三島は、驚異的な努力によって肉体を鍛え上げ、隆々たる筋肉をまとうこととなったが、筋肉を鍛え上げるのは容易でも、運動神経を鍛えるのは容易ではない。三島の剣道がへたくそだったことは、当時、盾の会にいた人の証言があるが、運動音痴がへたに筋肉をまとえば、動きはかえってぎこちなくなる。「運動音痴」 とは、ようするに世界に対する肉体の違和であり、おのれの肉体に対する違和の別名なのである。

 三島の葬儀で、武田泰淳は 「君はもう頑張らなくていいんだよ」 と語りかけたという。「頑張る」 とは、彼の場合、つねに他人の期待にこたえることであった。父親の期待にこたえるため勉学に頑張り、世間の期待にこたえるため 「流行作家」 として頑張り、マスコミの要求にこたえるため、「英雄」 という名の 「道化」 を演じることに頑張った。半世紀にも満たない、三島という人の一生は、そういうものであったように見える。

 筋肉をまとい、健康な肉体を手に入れたことで、三島はたぶん、ひ弱で孤独だった少年時代には遠くから羨望しながら眺めていた、「男の世界」 に入る資格がようやく得られたと思ったのだろう。彼の自衛隊への体験入隊とは、そういうものだ。だが、高名な作家を迎え入れた自衛隊の側の気苦労は、はたしていかなるものであったのか。『太陽と鉄』 で体験入隊について語る、その華麗な文章はほとんど滑稽でしかない。

 たかだか11メートルの高さからにすぎない落下傘の訓練程度で、「そのとき明らかに、私は、私の影、私の自意識から解き放たれていた」 などと語っていること自体が、彼が抱えていた自意識という病の深さを明るみに出している。普通の隊員は、そもそもそんなことなど考えもしまい。自意識という病は、結局のところ、彼が死ぬまで抱えていた狼疾であったのだ。

 たとえば、最初に冒頭部分を引用した『私の遍歴時代』 というエッセーは、こんなふうに締めくくられている。

 そこで生まれるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真に生々しく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病を病んでいるのかもしれない。26歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。

 官僚一族に育った三島由紀夫は、ロマン主義者としてふるまうには明晰であり、律儀でありすぎた。また古典主義者であるには懐疑的でありすぎた。人はロマン主義者であるには、自己への懐疑を禁じなければならないし、古典主義者であるには世界への懐疑を捨てねばならない。なんの情熱も持ちえない者は、唯美主義者ではありえても、ロマン主義者にはなりえない。たとえ不毛なものであろうと、情熱を欠いたロマン主義者とは、一個の背理にすぎない。

 「われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり」 とか、「日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである」、「千万人といえども我往かん」、「民衆の罵詈讒謗、嘲弄、挑発をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく」(反革命宣言 『文化防衛論』 所収)などと語る彼の言葉は、ほとんど愚劣でしかない。定型文句を並べ立てたその空疎さは、とても言葉を偏愛した三島のものとも思えない。

 福田和也は文庫版 『文化防衛論』 の解説で、「三島は不敵かつ不吉な扇動者となった」 と書いているが、冗談ではない。これは扇動としてはまったく馬鹿げており、同じ時期に、「前段階武装蜂起」 による首相官邸占拠を唱えて、大菩薩峠で大量逮捕された赤軍派にすら、遠く及ばない。この扇動文の空疎さは、むろん彼の現実認識の空疎さを反映したものと言えるだろう。

 認識は情熱を必要とする。情熱のないところには、いかなるまともな認識も生まれない。戦争中にはどこにでも溢れていたような、空疎な決まり文句をただ羅列した扇動も、彼が作り上げたわずかな人数のおもちゃの軍隊も、結局のところ、すべて彼にとっては、自己の死を飾り立てるための道具立てに過ぎなかったように見える。

 おそらく三島の悲劇は、彼が頑張りすぎる人だったことにある。社会的不適応という自覚があったのなら、無理してマスコミや文壇の寵児であり続ける必要などなかったはずだ。彼の強烈な克己心は、つねにただひ弱な自我を覆い隠し、他人の視線に応えるためにのみ充てられたように思える。それはすべて不必要な 「頑張り」 であり、ただ最後の悲劇を招きよせることに役立ったにすぎないように見える。

 マスコミに出続けたのも、鎧のごとき肉体を誇ったのも、同業者らの前でわざとらしい豪傑笑いをしてみせたのも、全共闘の学生らと対談をしてみせたのも、すべては自分は本当はニセモノではないのかという猜疑につねにさいなまれ、他人の視線と評価を気にせずにはいられなかったという、少年の頃と変わらぬひ弱な自我の表れでしかなかったように見える。

 彼の死は、個人としてはたしかに悲劇だったかもしれない。しかし、政治的な事件としては、まったくの喜劇でしかない。もちろん、毎年各地で行なわれている、「憂国忌」 などという事々しい名称の行事は、それ以上に愚劣な茶番でしかない。

 戦後17年を経たというのに、いまだに私にとって、現実が確固たるものに見えず、仮の、一時的な姿に見えがちなのも、私の持って生まれた性向だと言えばそれまでだが、明日にも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日あったものは今日はないような時代の、強烈な印象は、17年ぐらいではなかなか消えないものらしい。
『私の遍歴時代』


 もしも、彼があと五年、遅く生まれていたなら、大衆化した戦後の文学を象徴する、時代の先頭を切った寵児としての役割を無理に演じ続けることもなければ、戦争中に流行したような、つまらぬ 「死の美学」 に回帰的に引き寄せられるようなこともなかったかもしれない。そのような仮定は、むろん無意味なものではあるが。


二年前の関連記事: 今年も 「憂国忌」 の季節がきた

追記: ふっと思い出して、橋本治の著書を探し出してみたら、タイトルが同じでありました。






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Last updated  2009.11.24 23:48:46
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