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カテゴリ:島津義弘
島津義弘の加治木屋形跡(加治木仮屋町)の訪問は2回目である。 と言っても6年前の2015年9月10日に当ブログに「島津義弘の居城跡 加治木護国神社を訪ねる」という標題で書いているのでちょうど6年ぶりという訪問だ。 入り口に「島津義弘公 薨去碑」(こうきょひ)という石柱があったが、これは私の記憶では2015年には無かったのではと思う。 下の石碑は光線の具合で文字が見えないが「義弘公薨去地碑」と書いてあり、大正7年11月に貴族院議員 島津久賢(当時の加治木島津家当主)氏が建立した。 義弘は慶長12年(1607)73歳で平松城よりここ加治木屋形に転居し、元和5年(1619)当地で生涯を閉じる。享年85歳だった。 その間、80歳を越えた頃から義弘は自伝を記している。それは現在「惟新公御自記」とよばれているもので、年代などの記憶違いは多いとはいうものの、晩年における義弘の人生観、歴史観、宗教観が伺えて興味深いものであるという。島津修久氏の編集で増補改訂版が発行されている。 前回も紹介しているが珍しい石造物がある。今回もついついシャッターを切ってしまった。 加治木護国神社は、明治元年の戊辰戦争、10年の西南戦争、27年の日清戦争、37年の日露戦争、昭和16年の大東亜戦争の国事に殉じた加治木町出身者・並びに縁故者を祀る。 戊辰戦争記念碑 大東亜戦争 西南之役百周年記念碑 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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こんばんは。元気に勉強をされているのですね。多分大好きなんでしょうね。以前のは拝見していると思います。九州と言ったら、西郷隆盛さんと、島津家の名前くらいしか分かりません。写真を拝見していつも思うのですが、石像に模様のように白くなっていますが、、古いという証拠ですか?
磨き石みたいに輝くようにならないのかしら、、? (2021.10.03 19:48:10)
義弘が晩年を過ごしたのは加治木だったのですね。
その年齢で、一冊のまとまった著作を残すのは大変な精神力でしょうね。 多少の記憶たがいはもっと若くてもあることだし、色々な私物に対する考えがしっかり述べられているのは素晴らしいことですね。 85歳、大往生だったのでしょうね。 (2021.10.03 20:33:18)
明治時代になっても 戦争は 続きましたね。両親の生まれた 明治時代も 戦争が続き 苦労が多かったですね。新しい憲法が出来て 76年 戦争が無かったのですから これを守って行きたいですね。
(2021.10.03 21:02:42)
木昌1777さんへ
鹿児島の石造物に多く使われいるいしは「熔結凝灰岩」という、火山の噴出物などを成分としていますので、脆いです。経年変化しやすので風化して壊れやすいです。浮き出ている白いものは苔が枯れたものです。 (2021.10.03 21:46:57)
蕗さん8256さんへ
ほんとにそうですね。 私達に近い先祖の時代まで平和な時代はなく、この70数年曲がりなりにもやっと落ち着いた感じです。 しかし、このところまたまたきな臭い匂いも漂ってきそうで油断のできない時代になってきましたね。 (2021.10.03 21:51:19)
mamatamさんへ
義弘公が晩年を過ごしたのはまさに加治木だったのです。 兄の義久公もこの近辺ですから、世が世なら加治木方面が鹿児島の県庁所在地になっていたかもわかりません。 義弘公の「惟新公御自記」も達筆で書かれていたのでしょうね。 (2021.10.03 21:58:55)
中島公園の隣にある神社で、
多数の石造物が揃っています。 (2021.10.05 08:50:51)
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