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カテゴリ:島津一族
鹿児島市の繁華街・天文館の一角にある島津重豪(しまづしげひで)像である。 島津重豪は下の説明板にあるように第25代島津家当主にして第8代薩摩藩主である。延享2年(1745)~天保4年(1833)89歳と長命であった。 先代は幕府から木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を命じられた島津重年。難工事のため多くの犠牲を強いられ心労もあったのか27歳で亡くなったので島津重年の嫡子の重豪が跡を継いだ。その時、重豪は11歳であり、当初、3代前の藩主で内祖父(系図上は曽祖父)の島津継豊の後見を受けたが、その継豊も宝暦10年(1760)に病没するなどして、若いときから苦労が多かった。 しかし、正室に一橋徳川家当主・徳川宗尹の娘・慈照院を迎え、安永5年(1776)には自身の三女・広大院(茂姫)が一橋徳川家の世子(時期藩主)・徳川家斉と婚約するなど徳川一門との縁組が続いた。その家斉は天明元年(1781)に第10代将軍・徳川家治の世継ぎに迎えられ、天明7年(1787)には第11代将軍に就任した。 めぐり合わせで思いもかけず将軍の岳父となった重豪は、間もなく家督を嫡子島津斉宣に譲ったが、藩の実権を保持し、斉宣ら2代の藩主の後見を行った。将軍の岳父となった重豪のもとを訪ねる人は引きも切らず、権勢は将軍を思わせるほどだった。住んでいた場所から「高輪下馬将軍」の異名を得るほどだったという。 藩政面では儒学や武道、天文学、医学に力を注いだ。 同じ天文館にある「天文館の碑」。「明時館」は天文館とも呼ばれて、天文観測など行っていた。現在のここ天文館の名はこれに由来してる。 安永2年(1773)藩校・造士館と武芸鍛錬場・演武館を現在の中央公園に設置した。 安永3年(1774)に医療機関・医学館(医学院)を設置した。 このように時代の先端をいく施策で薩摩藩をリードしていったので重豪は「蘭癖」(らんぺき)とよばれた。「蘭癖」とは、江戸時代、蘭学に傾倒したり、オランダ式(或いは西洋式)習俗を憧憬、模倣するような人を呼ぶ名である。このような人々を明治時代になってから「西洋かぶれ」とも呼ぶようになった。島津重豪の曽孫・斉彬も「蘭癖」と呼ばれた。「蘭癖」とよばれ藩主や大名は他にも多い。 重豪が藩主就任時に約88万両あった藩の借財は、その後も膨張するばかりであった。極端な開化政策、度の過ぎた本草学や蘭学への傾注、将軍の岳父としての交際範囲の広がりなどによって、冗費は増加し、重豪は隠居後に調所広郷(笑左衛門)の登用し、藩政改革に当たらせた。のちに調所は悲運の死を遂げることになる。 参考資料 現地説明板 wikipedia 島津重豪 「島津一族」 河口素生 他 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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