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カテゴリ:鹿児島の歴史
先日探したがどうしても見つけることができなかった「諏訪小路」(すわんしゅっ)、帰って地図で確認したら反対側をうろうろして探していたことがわかった。今回街に出る用事があって用済後行ってすぐに発見することができた。 下の通りが「諏訪小路」で真っ直ぐ進むと鹿児島中央駅方面に向かう。少し行った先に清滝公園があるが、当時、この公園付近に「諏訪神社」があったことから、このように呼ばれるようになった。 諏訪小路から市役所方面に5分くらい歩くと照国神社に向かう照国通りに出る。照国通りの左側の先に見える信号は「御着屋」。この御着屋の信号機から右に入ると10mくらい先の右側に「僧俊寛の碑」がある。 俊寛(1143~1179)は、平安時代後期の真言宗の僧である。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかんそうず)と呼ばれることも多いという。村上源氏の出身。 後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、下の説明板にあるように平氏打倒の陰謀に加わり密議を行った。そのことが露見し平清盛により鬼界島(現在の三島村硫黄島)に流された。そのときここにあった俊寛堀といわれていた堀から船出したという。 鬼界島に流された後の俊寛ら3人は望郷の日々を過ごしていたが、俊寛以外の2人は赦されるが、俊寛は謀議の張本人という理由から赦されず、島に1人とり残される。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。1179年、俊寛の侍童だった有王が鬼界島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰ったという。ここには詳細は書かないが流刑地にも諸説があるようだ。(この項wikipedeia) 僧俊寛のことを私が初めて知ったのは、近松門左衛門作の「平家女護島」が歌舞伎「平家女護島 俊寛」として平成23年3月に中村勘三郎によって硫黄島の海岸で公演されたというニュースを知ったときだった。 更にデパート山形屋の1号館と2号館の間にある道路を市役所方面に向かうと右側に「木屋町通」(きゃんまっどおい)がある。かってこの辺りに材木屋が多かったことからこの名前がついたという。 右側の石灯籠のあるところは、鹿児島の老舗菓子舗・かるかん元祖・明石屋。軽羹(かるかん)で有名。 鹿児島市にはこれまでも折に触れて紹介し、今日も紹介した「諏訪小路」「木屋町通」など町の通り名を書いた石碑が数十カ所あり、いずれにも鹿児島弁のひらがな読みが書かれている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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