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カテゴリ:鹿児島の歴史
私がここ伊作城を初めて訪れたのは2012年2月12日、そのことは同じ12月16日の当ブログに書いた。 その後、先日千葉県から来たFくんが前回来た時、Fくん、Kくん、Mくんの3人にここを案内したことあったので今回で3回目の訪問だと思う。 島津家中興の祖と言われる島津忠良(日新公)やその子・貴久 更には孫のいわゆる島津四兄弟の義久 義弘、歳久、家久など島津家の歴史上大きな役目を果たした武人たちがここ伊作城(亀丸城)で誕生していて誕生石が残されている。 亀丸城(県史跡)は、上の案内版にあるように伊作城の本丸であり、伊作川下流の右岸にあり、標高73めお最高地とする山城である。 この城については、下の案内板にも詳しく書かれているが、城の最盛期の規模は南北750m・東西1050m,楕円形の城域全体の面積は約50万平方メートルあった。 成立は南北朝時代にさかのぼるといわれているが、伊作荘地頭伊作島津氏代々の居城で、中山城とよばれていた山城が前身である。伊作島津氏は後に島津本宗家を継ぐことになったことから、当城は近世島津家発祥の地と考えられている。また島津義弘は毎年伊作城へお見舞いをあい、近世初頭まで鹿児島城下士が伊作城へ日夜御番をつとめた。 下は土居(どい) 大きな土手のような土居は敵の侵入を防ぐために土を盛り上げて造ったものである。 空堀 大きな溝を造って城を守った。 この日、この伊作城の前に訪ねた「多宝寺跡」墓地に島津忠良の三女・「お西さん」の墓標があったが、ここにはその誕生石があった。以前訪れたときは何も思わなかったが、こうしてつながると歴史の面白さを感じる。 伊作城趾之碑 義久・義弘・歳久・家久の誕生石 島津忠良(日新公)の誕生地の碑 土塁(どるい) この亀丸城跡に見られるように山の頂上を、人の手によって造らた平たいところを曲輪(くるわ)という。その曲輪を守るために造られたものが土塁という施設である。周囲の見張りや戦いの際に身を隠すために使われた。 「亀丸城之碑」や伊作島地家一族の誕生石などが整然と並べられて綺麗に清掃もされている。 まさに聖地である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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