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2023.08.05
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戦後になり爆撃で破壊された工場の再建と共に、
アメリカ軍による技術者の連行と西側への逃亡者に加えて、
ヤルタ会談によるソ連軍の接収で混乱していた、
光学界の巨人であるカール・ツァイス・イエナ。

それでも、ほんの数か月を経て何とか工場を再建すると、
ツァイス・イエナのAbteilung Foto(写真目的部門)に、
フォクトレンダーでキャリアを積んだ、
35歳のハリー・ツェルナー博士が部門長に就任。

当時のドイツで最も若くて最も経験が豊富なレンズデザイナーが、
カール・ツァイス・イエナの中核にやって来たのだ。


ツェルナー氏は戦時中に開発された新しい硝材を知ると、
新時代に相応しいレンズの可能性を追求する為に、
既存の光学系の設計を新しい硝材でやり直すことを開始。

その最初の成果が1947年10月29日に完成した、
新しいテッサー50mmf2.8であったけど、
既にテッサー型の限界に気付いていたツェルナー氏は、
その結果に満足する事が出来なかった。

 カール・ツァイス製のf2.8テッサーに関しては、
 既に戦前の1934年に試作されていたローライフレックス用があった。

 それには1933年に設計されたテッサー80mmf2.8レンズが付いていたのだけど、
 販売されなかったのはテッサーの描写に問題があった。

 実は50mmからの単純な発展型だった為に、
 焦点距離の延長に伴う収差の増加と共に、
 およそ10度広くなった画角のお蔭で球面収差の影響が出てしまい、
 周辺部の描写までも劣化させていた。

翌年の1948年にツェルナー氏は先輩のメルテ氏によって設計された、
変形ダブルガウスのf1.4ビオターの収差補正の理論を応用して、
新しい光学系の開発に着手する。

そして1948年9月に完成した新型のビオメター80mmf2.8は、
その時点でローライフレックスが入手できる最高のレンズであったにも関わらず、
1949年までのソ連向けの戦時賠償生産が優先され、およそ2000本が供給されただけで、
東西の分裂がはっきりした時点で、ローライとのプロジェクトは中止されてしまった。

オマケにカールツァイス・イエナの新時代を象徴する筈だった、
高性能で最新鋭のビオメターが完成しても、
当時の保守的な首脳陣と共産党は、
栄光のテッサーブランドを手放すつもりはなかったらしく、
その後も40年に渡りテッサーは東側の標準レンズとして製造される事になる。


一方、戦後間もない西側のオーバーコッヘン・ツァイスでは、
レンズの生産が遅れてライバルのシュナイダー製のレンズが、
西側ツァイス・イコンのカメラやローライフレックスに供給される有様だった。

所が、その後1950年になって、
ツァイス・イエナが戦時賠償生産を完了して、
西側の民生市場に再参入を目論んだ時点になってみると、
既に西側ではローライ向けにビオメターそっくりのシュナイダーのクセノターとか、
オーバーコッヘン・ツァイスからも1群目を張り合わせにしたという、
オプトン製のプラナーが登場して市場が消滅。

 上記のビオメターそっくりのクセノターに関しては、
 ビオメターの共同設計者だったルドルフ・ソリシュ氏が西側に逃亡した際に、
 シュナイダーへ持ち込んだ可能性が高い。

 ついでにビオメターという画期的なレンズに関して、
 ツェルナー氏はパテントの申請もしていないけど、
 当時のツァイス・イエナはテッサーへの拘りが尋常ではなかった。

 テッサーよりも高性能らしいけどスペックは同じという、
 知名度も無い良く分からん西側製品の様な高価で退廃的なビオメターよりも、
 テッサーは世界中で知名度も定評もあって安価に作れるという事を優先。

 当時の共産党とそれに倣うカールツァイス・イエナの幹部の影響は大きく、
 テッサーしか見ていない官僚的で保守的な共産主義の元では、
 ツェルナー氏が幾ら良いものを作っても認められる事など無かったと推察する。
 

1950年7月になると東側のカールツァイス・イエナでは、
プリマフレックスⅡ、マスター・コレレ、エクサクタ6X6用に、
東側ご自慢の看板商品でありながら性能がイマイチだった、
80mmf2.8テッサーの改良に着手する。


合わせて、戦前のビオゴンが使えない西側のコンタックスⅡA/ⅢAの為に、
広角のビオメタ―35mmf2.8を売り出したものの、
ベルテレ氏により改良された新型ビオゴンで終了。

結局、ツェルナー氏は東側向けのレンズに集中する事になり、
せっかくの35mmビオメターの前面にワイドコンバーターを配したような、
当時世界でも稀有な一眼レフ用広角レンズのフレクトゴン35mmを、
アンジェニューのレトロフォーカスと殆ど同時期に開発する。


オリジナルの1948年式ビオメター80mmに関しては、
プラクチシックス用として再計算され、
ローライ用と違い設計の自由度がある為に改良されて前玉が大きくなった。

1951年には35mm判ポートレートレンズという事で、
ビオメター80mmはプラクチナ、プラクチカ、エクサクタの各マウントと共に、
16mmムービーカメラのAK16用にも細々と供給された。

1960年代になると全自動絞りのビオメターが登場するも、
望遠では戦前から定評のあるゾナー135mmよりも高価だったために売れず、
一部のポートレート写真家を除いて殆ど評価される事も無いままに、
結局、35mm判用は1965年に姿を消す事になる。


一方、中判用の方はプラクチシックス用に関し、
1956年6月にエレメントの2番目の硝材を、
イエナで開発された最新のSSK10に置き換えて改良。

それでも、1959年にようやくテッサーと入れ替わるまで、
最新で最高のビオメターは日の目を見る事はなかった。

その後、ようやく6X6判用の標準レンズとしてペンタコンSIXとコンビを組み、
ツァイス・イエナの高性能看板レンズとしての役目を果たしていく。


所でオイルショック後の70年代後半になって、
なぜビオメターが日本のブロニカへ短期間だけ供給される事になったのだろうか。

当時ブロニカは高コストなニッコールからの脱却を試みる中で、
東側との決済レートの関係でニッコールよりもコスパは良かった筈で、
短期の供給になってしまったのは、
主要なアメリカ市場に於ける共産主義アレルギーだと思われる。

 ツァイス・イエナ製のブロニカ用MCビオメター80mmf2.8は、
 1974年に3千本/1977年に5千本/最後の1979年には560本が、
 ビオメター或いはゼンザノン銘で供給されている。

他にもビオメターは、
ペンタコンSIXのシュナイダー・バージョンである、
エクサクタ66の標準レンズだったクセノターの廉価版として、
ごく少量だけ生産されたようだ。


ペンタコンSIXマウントのビオメターの構造図。


ビオメターのレンズ構成図を見ると、
クセノター型はビオメター型という事が分かる。

因みに西側のオーバーコッヘン製プラナーは、
1群目が2枚の貼り合わせになっていて、
いずれにせよ2つのレンズの下敷きはビオメターで間違いない。


これを見るとツェルナー氏は、
1961年に新ガラスを使ったタイプで、
ようやくパテント申請を行ったらしい。

ビオターの絞りを挟んで最初の後群が2枚張り合わせだったものを、
ビオメターでは1枚に簡素化したお蔭で、
レンズ構成としては、ガウス型+トポゴン型のハイブリッド。

これの4番目に配された薄くて湾曲のきついレンズエレメントⅣは、
中心厚の精度が煩く高度な研磨技術が必要となるので、
ツァイス・イエナのレンズ群でもビオメターは高価なレンズだった。


実用性丸出しのフジカST801に付けた、
アルミそのままの鏡胴が特徴の中期型ビオメター80mmf2.8。
フジカ独特の遊びの無いデザインが東側のアルミレンズに合う。

このビオメターはシリアルから1952~1955年製なので、
ローライ用から改良されたオリジナルに近いレンズだ。

35mm判用のビオメターの初期型は黒鏡胴のピントリングが革巻きで、
後期型になるとお馴染みのゼブラ模様になる。


昔、プラハのカメラ屋さんに潜り込んだ時に、
カウンターの上に置かれたペンタコンSIXを前に、
若い女性が店員から使い方を教わっているのを見た。

どうやら、ずっと欲しかったカメラを手に入れたらしく、
嬉しくて誇らしいような明るい笑顔を始終見せていて、
その気持ちが痛いほど分かる自分も嬉しくなってしまった。

というわけで35mm判にも使えそうなビオメター80mmだけ購入。
なぜかレンズ単体だけ幾つもあったのは、
ペンタコンSIXがポンコツなのかアダプターを使い35mm判で使う為か。
どれも値段は800コルナ前後(2400円)だったと記憶している。

手持ちのビオメターは、
シリアルから1964~1967年製なので、
既に前群の2枚目が新しい硝材に変更されているタイプだ。

同じショップで別の機会に入手したゾナー180mmにくっついていた、
ペンタコンSIX->M42アダプターで、
いつか使ってやろうと思いつつ30年…。

ベッサフレックスに付けたペンタコンSIX用のビオメター80mm。
レンズ銘の頭に付いている虫の様なマークは東側の高品質製品を表している。


中判用のもう一本はブロニカ用。
カール・ツァイス・イエナと、
今では消滅した東ドイツを表すDDR/デーデーエルの文字が入った、
ゼンザノン銘のMCビオメター80mm。

実はブロニカ標準のニッコールP75mmf2.8も同じ様なレンズ構成であり、
両方ともビオメター=クセノター型という親戚関係にあるけど、
当然ながらビオメターの方が先輩でオリジナルである。


1950年代製でM42マウントのビオメター80mmf2.8の作例(全て銀塩写真)

色んな桜が満開なのに、誰も訪れているのを見たことがない公園にて。


咲き始めの桜も良い。
最近は気が付くと一気に開花してしまうので油断できない。


いつもなら他の桜と違い2週間くらい遅い筈の枝垂れ桜。
蕾の様子を見に行ったら、この有様。


田んぼの土手に春の到来。


里山をバックに満開の桜。下に見える赤い花は花桃。


右手のカラマツも色が変わってきて春が進んでいく。


まだ何も手が付けられていない田んぼの脇に咲く古い桜の木。
いつもなら、田んぼには水が張られている筈なのに。


良く訪れている別の田んぼの脇でも桜の古木が満開。
右手下には川の対岸で咲いている桜が見える。


新緑で色づいた木々の真ん中の下に案山子が居る。


実は偉大なテッサーレンズの後継だったのに、
継子扱いで今では殆ど忘れられたビオメター80mmレンズ。

それは本家よりも西側でクセノターとして開花して、
初期のプラナーにも影響を与えたのは良かったけど、
へそ曲がりは当然ながらビオメターを贔屓にしなくてはならない。






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最終更新日  2023.08.05 19:30:08
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