宗教の本質
日本はよく無宗教国家と言われます。少なくとも戦後の日本はそういった傾向が年々強くなってきたことは間違いないでしょう。街を歩いても、小さな神社やお地蔵さんがありますが、丁寧に手入れをされているのは、たいていお年寄りです。あと20年もすれば、誰も手入れをしなくなり、世の中のお地蔵さんや小さな神社は見るも無残な姿をさらすことになるだろうなと思い、いつも心配しております。私の身内でも、母方の実家の本家では80歳になる伯母が、先祖の墓参りをしっかりやっています。しかし、私のいとこ(50歳代半ば)の奥さんに関しては、あまり積極的墓参りはしていないようです。世代が若くなるにつれ、日本人の宗教心は薄れているように思います。これは、本当に由々しきことだと私は案じています。 私の母方は一向宗の家柄でした。幼い頃、両親が離婚して父とは18年間音信不通なので、父方の信仰については全く何も知りません。また、嫁方はキリスト教徒です。そんな中、私は神道を信仰することに決めました。嫁も私の意志を尊重し、同様に日本の神様を敬ってくれます。子供にも、日本の神様と神社を敬うように教えています。本来日本人が2670年もの長きに渡り信仰してきたのは神道なのです。また、神道を尊重すると言うことは、即ち皇室にも敬意を払っており、息子にも皇室への敬意を持つよう教えています。皇室と神道は日本が世界に誇れる財産なのです。残念ながらその存在は戦後、日教組などの左翼勢力に貶められてきました。今の日本の混沌とした社会が出来た背景にはこういうこともあるのだと思います。 前置きが長くなりましたが、私は宗教または信仰は大事だと思います。しかも、宗教や信仰の自由はある程度制限されるべきだと思います。宗教と信仰は、一個人の心の平安をもたらす効果があるのは事実ですが、それよりももっと重要なのが、社会の平安をもたらすことです。人間とは、元々欲深く、産まれたままの状態で大人になれば獣のような獰猛さが備わるのです。失礼ですが、最近甘やかされた子供達が、金欲しさに人を殺すような信じられない事件を引き起こしているのがその一つの現れです。また、殺人まではいかないまでも、宗教心を失った若い経営者などが、自分の実力一つで一儲けをして、周囲を見下そうとしていることをあちらこちらで見かけます。こういう人達が多く存在すると、社会の人心は乱れ、国民の結束は崩れ、治安は悪化し、最悪の場合、国家の崩壊を招くのです。日本は、今そう言う状態になっていると言っても過言ではありません。よって、人間の欲望や傲慢さは抑制しなければならないのです。その欲望を抑える一つが宗教または信仰なのです。国民の皆が、神仏の前で手を合わせ、己の至らなさを肝に銘じ精進を重ねるならば、人心は自ずとまとまり、国家は静まるのです。昔はこういったことを親が自然と子供に教えていたのですが、今時の若い親御さん達が、子供にこのことを教えているようにはとても思えません。それが、子供達の心の荒廃を招くのは間違いないでしょう。 私は宗教を尊重しながらも、宗教の自由はある程度制限を受けるべきと思います。言葉を変えると、同じ国内に多種多様の宗教が存在することは好ましくないと思います。国が主導で、国教を定める必要があります。日本では、神道と各種仏教が昔からありますが、これを国家の宗教と定めなければなりません。国教以外の宗教は、その布教活動に制限が必要です。それはなぜかと言うと、前述したように宗教は人心をまとめうものですが、その人心をまとめるべき宗教が多種多様にあるようでは、人心がまとまりません。むしろ、争いの種になりかねないのです。ヨーロッパと中東地域などを見れば宗教戦争が過去沢山ありましたが、これとよく似た話です。宗教観の違う人達が近くで住むと言うのは非常に難しいことなのです。逆に言えば、国民が共通の信仰を持つことで、仲間意識が強まり、国家は一枚岩となるのです。また、明確な信仰が決まることで、オウム真理教などの「危険な宗教」が世の中にはびこりにくくなるのです。あのような宗教団体が戦後増えてきたのは、無宗教国家の日本の特徴とも言えるのではないでしょうか。 今の混沌とした日本を再び蘇らせるためには、昔家庭で当たり前に教えられていた神々への信仰と皇室への敬意を、今再び子供達に教えることが必要です。それによって日本を揺ぎ無い一枚岩にすれば、日本は再び戦前の平穏な時代に戻れるはずです。