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カテゴリ:自叙伝
毎年、冬のこの時期になると縮みホウレンソウというのが店頭に並ぶ。
昔と今ではまったく味の変わってしまった野菜の代表がホウレンソウだが、昔のホウレンソウの味を思い出させてくれるのがこの縮みホウレンソウである。 家庭科の男女共修はいつ始まったのだろうか。「男が台所に立つなんて」と考える親が大半だった時代、家庭科の男女共修は小学校止まりだった。中学や高校で家庭科が共修になった世代は幸運だと思うしうらやましくもある。というか、技術という名の男だけの授業は苦痛でしかなかった。 家庭科の調理実習は小学5年のときだった。 小学生くらいまでは、男の子というのは小食なものである。ご飯をお代わりするのはカレーや炊き込みご飯のときくらいで、もっとたくさん食べろと親に怒られることが多かった。 しかし、ご飯とみそ汁とホウレンソウの油炒めを作ったその調理実習のとき、自分たちで作ったそれらはすばらしくおいしく感じられた。少ないおかずにも関わらずご飯をお代わりして食べたものだった。 料理は、自分ひとりでもまあ楽しいが、みなで作るともっと楽しい。妻が作ったものをただ食べるだけの男というのは理解を超えるモンスターでしかない。一緒に作ると何倍もおいしく感じるものだからだ。 給食は、結局ひとりで食べるだけだ。しかし、この調理実習のときは、向かい合ってグループで食べる。ご飯がうまく炊けたとかみそ汁の味が薄いとか、あれこれ言いながら食べるのは楽しく、クラスメートの意外な一面を見ることができたりして、強く印象に残った。 それ以来、ホウレンソウの油炒めは好物の一つになった。 イタリアを旅行したとき、隣のテーブルで緑色の野菜をソテーしたものを食べているのを見て同じものを注文してみた。そうしたら、ホウレンソウの油炒めだった。スピナッチというイタリア語を覚えたのはそのときだったが、イタリア料理のそれは、低い温度でじっくり、くたくたになるまで炒めるもののようで、まったく歯ごたえがないほど柔らかくなっていた。 どうしても思い出せないのは、ホウレンソウをゆがいてから炒めたのか、そのまま炒めたのかである。昔のホウレンソウはあくがとても強かったので、ゆがいて水にさらしてから炒めたような気がする。また、その方がおいしくなる気がする。 調理法もさることながら、同じ食べ物でも、だれとどんな機会に食べるかで、ずいぶん味がちがって感じられることを知ったのはそのときが初めてだったと思う。つまり、楽しく食事することが最高の、仕上げの調味料になるということであり、それこそが食事の最も重要なマナーではないだろうか。 その点ではやはりヨーロッパ人、特にイタリア人は抜きんでて優れているような気がする。 朝食や昼食はそうでもないが、ひとりの夕食というのは味気ないものだ。そういうときいちばんいいのは、アメリカのコメディ映画を見ながら食事することである。 ひとりの夕食は味気ないにしても、食べ物に気取った論評を加えるようなヤツと食べるくらいならひとりの方がましだ。 まったく批評精神のないヤツも困るが、出てきた料理のマイナス部分ばかり指摘するようなヤツと食べるとあとで胸やけがしたりして健康に悪い。ストレスがたまって、帰宅してからどか食いするようなことにもなる。 ゆでた縮みホウレンソウは何にでも入れる。みそ汁や卵焼きはもちろん、カレーや蕎麦にも入れる。 蕎麦に入れるときは特に大量に入れる。丼の面積の3分の1をホウレンソウ、3分の1をネギ、3分の1を揚げ玉というような割合にする。豪華に見えるしヘルシーだが、多すぎるとさすがにあまりおいしくない。おいしくないが、あえて入れている。 暑い時期は有機ホウレンソウの冷凍ものをいつも買うようにしている。これは小分けしてあるので便利。 素材さえよければ、塩コショウで炒めるだけで立派な一品になるのがホウレンソウの偉大なところで、そんな野菜はほかにない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 25, 2009 01:36:34 AM
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