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カテゴリ:百人一詩
「燕」
伊東 静雄 門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽 燕ぞ鳴く 単調にして するどく 翳(かげり)なく あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く 汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる 彼方の空より 来りしもの 翼さだまらず 小足ふるひ 汝がしぎ鳴くを 仰ぎきけば あはれ あはれ いく夜凌(しの)げる 夜の闇と 羽うちたたきし 繁き海波(かいは)を 物語らず 門の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて そはただ 単調に するどく 翳なく あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く 燕というモチーフは西洋の詩によくでてきます。古くは上田敏の訳詩集『海潮音』にもありましたし、最近では「千の風になって」という詩にもアマツバメが出てきます。ただ日本の詩歌の伝統の中では、燕より圧倒的にホトトギスの方が格が上でした(「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる」等)。渡り鳥という性格もあるのでしょうが、いわば燕というのは日本の鳥のなかでは奇妙にバタ臭い鳥なのです。 翻って日本の近代詩も、西洋詩の輸入とともに始まりました。その出自からしてバタ臭いのですが、日本の近現代詩の歴史はそのまま歌と散文に引き裂かれた百年史と言えるかもしれません。そのなかでも、日本の詩人は西洋から輸入した新しい「詩情」と日本語の新しい「表現」との折り合いをつけようとして苦闘してきました。 伊藤静雄さんのこの詩は、西洋からの輸入概念である「燕」を、日本語そのものである文語自由詩的なたたずまいのなかに見事顕現しえた一個の奇跡だと思います。この詩に出てくる「燕」の苦闘の歴史は、そのまま日本近代詩人の艱難辛苦であり、そこをつきぬけた詩人伊藤静雄の、高らかな宣言でもあったのではないでしょうか。 ここにも一個の、「詩人の肖像」があるわけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.02.25 19:31:16
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