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カテゴリ:川柳その他定型詩
まずは今日の入選句から。
・目覚めれば貴男のいないあさぼらけ(覚める) えと、これは川柳というより昔の和歌によくある発想から採ってきたものです。 ・これからは君が自分で拓く道(道) えと、これも高村光太郎『道程』からの借用です。 まあ、どちらも「本歌取り」効果を狙った作品ではあるのですが、評価的にはどうでしょうね。 不具は結構、平凡な句だと思っています。 同人の皆さんの話を聞いていると、短歌や俳句に対するコンプレックス乃至川柳人としてのプライドを感じますが、所詮、短歌や俳句や川柳なんて十把一絡げにして大衆文芸であり、「第二芸術」であり、軽文学にすぎないというのが不具の持論です。 文学としては、短歌も俳句も川柳も立派な芸術部門でしょう。けれども、鶴彬の「手と足をもいだ丸太にしてかへし」のような永続性のある、忘れられない作品を残せるだけの才能がその辺にごろごろ転がっているでしょうか。いませんよね。である以上、自分のやってる川柳を芸術だとか文学だとか思わないで、自分史の一環ぐらいに認識しておいたほうがいいのではないか、と思います。文学としての川柳の芸術性と、自分の作品の価値とはまず、切り離して考えるべきではないでしょうか。 その上で、一七音で表した現代詩のような現代川柳の価値も認めるべきだと不具は思います。どうせ、私たちの作品も10年もすれば民俗学か風俗史の対象ぐらいにしかならない作品がほとんどでしょう。どんなにいい句であっても、日本全国の柳人の作品をくまなく走査してみれば、たいてい類想作品が見つかるものです。苦心の作も、結局は平凡な句でしかない。もちろんそれはそれでいいのですが、だからといってそういうものを目指さない現代川柳なるものを、自分たちと毛色が違うからといって、いたずらに排除する姿勢が好ましいとは思えません。金子みすゞではありませんが、「みんな違って、みんないい」のですから。 もうひとつ。わかりやすさを目指すのもいい、大衆性を目指すのもいいと思います。確かにそうでないと、川柳の三要素である「おかしみ」「軽味」「うがち」は共有されにくいでしょう。しかし大衆性を目指す以上、サラリーマン川柳のような副産物もまたつきものです。これをいたずらに排除するのではなく、むしろ指導するくらいの余裕が、川柳人にほしいものだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.13 16:11:40
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