テーマ:政治について(20207)
カテゴリ:ぼくの疑問符
わたしも昨年、あることで散々に挑発をうけつつ、いい相談役をえて自分を失うことなく終息させたことがあるのだが、
今おもえば、先ごろ安倍総理が 「米国下院で慰安婦問題に関連して日本を糾弾する決議が出ても謝罪しない」 と、おそらく先手をとったつもりで発言したのは、広報対応としては最低の作戦だったのではないか。 もし安倍発言でかりに、 中国人・朝鮮人・韓国人・米国人がふるえ上がり、ないしは白けて、決議案採択の動きが止む見込みが あるていどあるのなら、発言には意味があったが、 効果は逆で、 譬(たと)えて言うなら、明らかに無罪な側が訴えられたとき、 「裁判所がいかなる有罪判決を出しても、わたしは従わない」 と宣言したのに似ていなかったか。 訴訟対応でこれを言ったら、裁判所の権威を侮辱しているように取られ、判決文を書く裁判長の心証を害するから、 どんな訴訟でも被告ないし被告人はこういう発言をしないものである。 ところがこれに類することを言ってしまったのが安倍首相ではなかったのか。 おそらく何れかの記者の挑発にのってしまったのではないかと思うが。 行政府の長として本気で評論するつもりなら、一般論としての「内政干渉」に釘をさすべきだった。 光の当て方を誤ったと思う。 このあいだの配信コラムにも書いたが、いまは議会とメディアが騒いでいるのであって、大統領府は出てきていないのだから、 わが官邸がしゃしゃり出るべきではなかったのに。 (むしろ粛々と、反撃の準備のために官僚を動員するべきときだ。これも、何度も書いているが。) バトルは米国の次元にあわせて「両国の議員および両国のメディア」の次元で進行させるべきだ。 これがまた、日本のメディアには 「ここは双方が互いに自制し、冷静に対応することが大事である」 と、人ごとのようなことを言ってすましているものが目立つ。 (たとえば日経3月11日の安藤俊裕・論説副委員長のコラム。) メディア人でありながら、戦う当事者としての意識の欠けた、田舎の好々爺みたいな評論を書いていていいのか。 いまはメディア人こそ当事者なのだと思うが。 わたしのような者も末席に加えた意味での「メディア人」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Mar 14, 2007 08:39:18 AM
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