テーマ:政治について(20109)
カテゴリ:世界を見る切り口
3月16日のブログに書いたことを訂正したい。
3月8日の中川昭一さんの発言は考え抜かれた発言だったと思う。 中川さんの発言をあらためて読んでみて、はっとした。 キーワードは「判断」という語だ。 中川さんの発言は 「政治家は歴史判断をしてはいけない。河野談話は歴史判断が入っていた気がする。いかがなものか。権力にある立場の人が歴史判断をするのは、大きな問題になりかねない」 というもの。 これに対してわたしは ≪中川発言を一般論として敷衍すると、およそ政治家は歴史談義をしてはいけない、というように取れる。 これは的外れ。 というか、中川さん自身が後々困るだろう。≫ と書いてしまった。 しかし、わたしのほうが的外れだった。 政治家が「歴史談義」をすることに中川さんは反対していない。 問題なのは「判断」を下すこと、なのだ。 たとえば金正日政権へコメの援助をするかどうかは、政治家が「判断」してよい。 そういう「権限」を選挙によって国民から付託されている。 賠償訴訟があったとき、どこまで争うかも政治家が「判断」できる領域だ。 そういう「権限」がある。 「判断」とは、もっと分かりやすくいえば「取引」だ。 「コメの援助をする代わりに xxxx を止めろ」という取引。 「xxxxを支払うから、これ以上騒ぐな」という取引。 政治家の判断とは、何らかのギヴ・アンド・テイク(取引)を成立させることの決断、と言い換えればいい。 歴史事実についてAかBかの議論があるときに、政治家がAだとかBだとか「判断」してはいけない、という意味は、 AだとかBだとか結論づけることを取引材料に使ってはいけない、ということだ。 歴史認定を取引材料につかってはならない、ということ。 そういう補助線を引いてみると実に分かりやすい。 平成5年の河野洋平談話が、韓国政府との取引に基づいていたことは河野洋平当人も含め関係者の証言がある。 目先の騒動を鎮めるために、政治判断で歴史認定をいじった。 そういうことをしてはいけない、ということを中川昭一さんは言ったのだ。 現在の日本政府がふたたび、歴史認定を米国との取引材料に使うことは決してあってはならないのだ。 歴史を現実政治のための取引につかったら、 つまり「政治家が歴史判断をして」しまったら、 それは我々がここ十数年間で学んだ歴史の教訓を全く生かしていないことになる。 ここは痩せ我慢のしどころだ。 われわれが他国民に比べればひじょうに真っ当に生きてきたことを、きちんと当たり前に常識として身につけてさえいれば、その気概は維持できる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[世界を見る切り口] カテゴリの最新記事
|
|