戦 後 29 年 フ ィ リ ピ ン ・ ル バ ン グ 島 に 潜 伏
元 陸 軍 少 尉・小 野 田 寛 郎 さ ん 死 去
91 歳 心 不 全
1945年の太平洋戦争終結後、29年間にわたってフィリピン・ルバング島に
潜伏していた元陸軍少尉の小野田寛郎( ひろお )さんが2014年1月16日午後、
心不全のため死去していたことが17日、明らかになった。91歳だった。
1974年の帰還後、ブラジルで牧場を経営したり
自然教室を開くなど精力的に活動。
90歳まで腹筋運動による筋力トレーニングに励んでいた。
帰 還 後 牧 場 経 営
小野田さんが主宰する教室「 小野田自然塾 」の関係者によると
小野田さんは今月に入ってから微熱を出し、自宅のある東京都
中央区の病院に6日から入院。
16日午後4時49分、帰らぬ人となった。
小野田さんの妻・町枝さん(76)と3人で暮らしていた町枝さんの
妹・小貫和子さん(69)によると、16日に容態が悪化した後も
周囲の呼び掛けに「 うん、うん 」と答えていた。
親族のみで密葬を行い、後日、お別れの会を開く予定だ。
1922年、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。
42年に応召し、陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦の
特殊訓練を受け、44年にルバング島に派遣された。
任 務 解 除 命 令 受 け ず 密 林 生 活
翌年、敗戦。
ところが小野田さんは終戦を信じず、任務解除命令を
受けなかったとして、部下3人とともに密林生活を続けた。
バナナなどを主食とし、敵機に発見されないようにと
山中深くに身を隠した。
島民の生活を脅かすことも多く恐れられたが、
逃亡や銃撃で部下を次々失った。
74 年 冒 険 家 ・ 鈴 木 さ ん 発 見
74年2月、冒険家の故・鈴木紀夫氏( 当時24歳 )に
発見されると、現地に赴いた元上官の命令を受けて翌3月、
約30年ぶりに帰国した。
第一声は「 長い間ご迷惑をかけました 」だった。
90 歳 ま で 筋 ト レ
翌75年、兄がいたブラジルに移住。
中西部カンポグランデ郊外の原野を開拓し
「 小野田牧場 」を設立した。
84年に帰国すると、福島県塙町に「 小野田自然塾 」を
開き、野外キャンプ教室を毎年開催。
昨夏のキャンプでも元気な姿を見せ「 ルバング島では
針一本がありがたかった 」と思い出話も披露。
12月にはブラジルの牧場を視察したばかりだった。
幼少期から肺が弱く、最近では酸素ボンベを使用していた時期も
あったが、体を鍛えることでボンベなしの生活に復帰した。
腹筋運動による筋力トレーニングは90歳になっても欠かさなかった。
晩年は、講演活動で全国を回り、青少年らに自らの経験を語った。
「 90分間ずっと立っていられなくなったら私も終わりだ 」
と語っていたが、背筋をピンと張り、直立不動で語り掛ける
スタイルは最後まで変わらなかった。
一 部 島 民 複 雑 な 思 い も
副 町 長 「 寄 付 忘 れ な い 」
ルバング島潜伏中の小野田さんは部下とともにフィリピン軍と
銃撃戦を繰り返し、10人以上の死傷者が出たとされる。
96年の再訪の際は、住民50人余りが抗議活動をした。
現地住民から体験談を聞いた邦字紙マニラ新聞の記者は
「 島民の一部には今も複雑な思いが交錯している 」
と話した。
一方、ルバング町のビリヤス副町長は
「 地元に被害を与えたのは事実 。
小野田さんにとって戦時中だったので、
やむを得なかったと思うが、本人は
悔やんでいた。
帰国後にピアノや学用品を寄付してくれた
心遣いが忘れられない 」と哀悼の言葉を述べた。
1 昨 年 取 材 で 語 る「 日 本 で 死 に た い 」
小野田さんはⅠ昨年2月、ブラジルの牧場で共同通信の
取材に応じ「 人に迷惑をかけず、家族の手を握って
死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で
死にたい 」と語っていた。
ブラジルの生活について「 密林暮らしが長かったので
暑い方が好き 」とし、サンパウロでの講演では
「 人は1人では生きていけない 」と訴えていた。
上記、記述は、2014年( 平成26年 )1月18日、
報知スポーツ新聞に掲載されたものです。
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最終更新日
2022年03月03日 18時24分17秒
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