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2009.03.14 コメント(7)
全108件 (108件中 1-10件目) バック・ヤード
カテゴリ:バック・ヤード
カウントアウト!! <第1期>最後のこの1冊 村上春樹WHO? 当ブログがスタートして、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 を読むあたりまでは、身近すぎて、ほとんど関心がなかった。村瀬春樹と混同して、その違いさえ興味もなかった。麻原集団事件関連本おっかけを始めた時点で、彼にはフィクションだけではなく「アンダーグラウンド」のようなノンフィクションもあるのだと気がついた。「約束された場所で」では、さらに一歩足を進めていたことも知った。 そのあと、当ブログのビジターからコメントをいただいたりしたので「神の子どもたちはみな踊る」も読んだりしたりし、最近では、エルサレム賞受賞のときの彼の演説に感動したりした。だけど、自称「プロの嘘つき」である小説家・村上春樹は同時代を生きているという感覚はあるが、当ブログとしての主テーマにはなりそうになかった。 当ブログの21番目のカテゴリを締める最後の一冊、そして、当ブログの第一期を締める1566冊目の本としてこの本が選ばれたのは、特段の言われがあったわけではない。えいや!、とばかり、枕もとに積み上げられた既読・未読本の山の中から抜き取られた一冊にすぎない。 これは村上春樹・本ではない。内田樹・本だ。「寝ながら学べる構造主義」や「『街的』ということ お好み焼き屋は街の学校だ」のあとがきで内田樹という人の文章を読んだ程度だ。彼のブログ「内田樹の研究室」は累計1400万ヒットを越す人気ブログである、とのことだから、かなり有名な人なのだろう。当ブログの70倍のヒット数だが、それって多いのか少ないのか。 これはある新聞社から2006年の10月、ノーベル賞受賞発表の前日に依頼された「村上春樹ノーベル文学賞受賞についてのコメント」である。「発表されてからじゃダメなんですか?」と訊いたら、紙面のつごうで予定原稿がどうしても欲しいということで、「ヴァーチャル原稿」を書いたのである。結果的には使われなかったが、できたらそのうちにこのままのかたちでほんとうに新聞に掲載される日が来ることを私は望んでいる。p11 私の記憶によれば、07年も08年も、話題にはなったが、受賞はなかった。ノーベル文学賞に最も近い日本人作家と言われる村上春樹だが、なにを持ってして、それだけ世界にファンが多いのであろう。 私見によれば、村上文学が世界各国に読者を獲得しているのは、それが国境を超えて、すべての人間の心の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。他に理由はあるまい。 ここあたりが、例のエルサレム賞受賞演説で語られた「壁と卵」のたとえの源泉となるところだろう。 国内外の批評家の中に、村上春樹の文学がどうしてあれほどの文壇的孤立にもかかわらず世界的ポピュラリティを獲得しえたのか、その理由について私に納得できる説明をしてくれた人はまだ一人もいない。p110 その理由も計り知れないが、世界的ポピュラリティを獲得している事実さえ把握していない当ブログにおいては、この「世界的ポピュラリティ」という概念にはちょっと惹かれるものがある。 私たちにわかったのは、村上春樹がたとえば、「全共闘運動への決別」や「80年代のシティライフの空虚さ」のようなローカルなモチーフを専門にするローカルな作家ではなかったということである。間違いなく、村上春樹はデビュー当時の批評家たちの想像の射程を超えた「世界文学」をその処女作のときからめざしていた。p181 同じころから知的アイドルとなった中沢新一もなかなか魅力的ではあるのだが、近未来的に「世界的ポピュラリティ」になるとは思えない。難解な文体とともに、「芸術人類学」などと言って、自らの甲殻に引きこもってしまったことも影響しているだろう。島田裕巳の批判にも答える様子はない。 批判に対してさらに批判するというのは一種の「地獄」である、と村上春樹は書いていた。「ものを書く」というのは、「バーを経営する」というのとそんなに変わらない、というのが村上春樹の考え方である。店に来た客のうち、「あ、この店いいな、また来よう」と思うのは10人に1人くらいである。 国分寺でジャズ喫茶「ピーターキャット」を経営していた村上らしい表現ではあるが、また「80対20の法則」を彷彿させる一節でもある。 村上作品ではつねに「ありえないこと」が起きる。村上文学にび漫するこの「ありえなさ」は小説がその誕生の瞬間から身に帯びた本態的性格なのだろうと私は思っている。 p249 「世界的ポピュラリティ」と「10人に1人くらい」と「ありえないこと」は、一見、相矛盾しているようだが、割とこの線は一本につながっているようにも感じられる。内政に行き詰って分裂の危機を抱えた政治家が、外交に打ってでて内政をひとつにまとめようとするマキャベリズムに似て、小説家が世界的ポピュラリテイを勝ち得るには、「10人に1人くらい」リピーターになってくれたらいいや、という割り切りで「ありえないこと」を連発する、そういう手があったのかもしれない。 村上春樹は自らの作品の批評はまったく読まないということだから、そこまでいやらしく計算しているとは思えないが、しかし、結果論としてはそういうことになっている可能性はある。 当ブログの<第一期>最後の一冊は、この「村上春樹にご用心」に決定した。しかし、それは偶然性に大きく支配されている。この本が最後にならなければならない理由はほとんどない。あえていうなら、枕もとに積み上げられた数百冊の中から、えいや!と抜き取られただけである。それはタロットカードの一枚占いに似ている。 タロットカードは一枚では存在しえない。56枚なり、78枚なり、108枚なりひと組のセットの中の一枚として存在している。そしてその中から一枚だけ選びとられる「偶然性」に、「必然性」を見いだすという「ありえないこと」をやる。だからこそタロットカードもまた「ポピュラリティ」を獲得しえるのだろう。 この本は、少なくとも当ブログにおいては、一冊としての孤立した価値はない。全1566冊の中の一冊、あるいはまだ未読分を含めた数千冊、数万冊に連動するセットの中の一冊として読まれる必要がある。 そして、やっぱり、ここに来て最後の最後にこの本がでてきたことには、なんらかの意味があるのであろう。それほど桁外れの「ありえないこと」ではないが、やはり当ブログとしては、<ちょっとした>「ありえないこと」ではある。この「事件」は、<第2期>の、<ちょっとした>「世界的ポピュラリティ」への誘発剤になってくれるかもしれない、という期待を込めて、これで当ブログ<第1期>を締めることにする。
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2010.01.13 20:44:22
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2009.03.09
テーマ:私のPC生活(7267)
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カウントダウン! <第1期>最後の2冊・目
この本、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスのトリニティから考えると、当ブログにとってはバランスがとれている一冊と言える。ひょっとすると、バランスで言えば、一番理想的な配分と言えるかもしれない。しかし、三分野において、それぞれに★5とはならない。なぜだろうか。 セカンドライフやヴァーチャルゲームを取り上げていながら、決してテクノロジーのためにテクノロジーになっていない。テクノロジーをちょっとジャーナリステッィクに眺めてみたり、ちょっと意識的になって深く考えてみたり。このバランスは注文通りなのだが、ちょっと全体的に暗い面がある。 セカンドライフで能力拡張を体験する身体に障害がある人々や、セカンドライフの源であるリンデンラボ社を訪問したり、韓国のヴァーチャル事情をしたりするが、決して冷徹な批判眼ばかりで見ているわけではない。私情を挟んだり、思い出を重ねてみたり、決してジャーナリズムのためのジャーナリズになっていない。その分、親しみは湧くのだが、切れ味で言えば、すこし生くらなイメージがないでもない。 しかし何と言っても、当ブログとしてのお気に入りになっているのは、彼が幼少時代をOshoコミューンで過ごしているということだ。随所に渡ってその色彩が浮かび上がってくる。「My Life in Orage」という自叙伝のような処女作がある著者だが、このような立場からの本は実に少ない。そのような意味では、貴重な書き手の一人である。だが、あえていうなら、彼は、OshoやOshoのサニヤシンであった母親たちに対しては鋭い批判的な目を向ける。 バランスがよい、という意味では当ブログにとっては非常に貴重な一冊であるが、決してベストな一冊とは言えない。この現象はなぜに起きているのだろうか。一つ考えられるのは、著者が英国人である、ということ。アメリカを訪ねたり、インドの思い出話が出たりするが、やはり彼は英国人だ。生きていることのセンスやユーモアのセンスが、どうもちょっとカビ臭い。 地球人、という未来性から考えれば、もうちょっとナショナリティを消してもらいたかったということがまずある。それにヴァーチャルゲームにすこしのめりすぎているので、もうちょっと突き放した視点があってもいいのではないか、と思う。ジャーナリスト、あるいは小説家という触れ込みではあるが、よくも悪くもアマチュアリズムが抜け切れていないので、手放しで安心して読める書き手でもない。 バランスがいいけれど、どの面においても中途半端である、という一冊になってしまった。それに日本の翻訳チームや出版プロジェクトが必ずしも的を射たものになっていないのも残念だ。この本の書評もネット上にいくつかあるが、決して多くはなく、発売以来1年半が経過したが、ベストセラーになった、という本ではないだろう。 つまり、すべての面において批判的あるいは懐疑的でありながら、それぞれを超えていない。次のステージが見えてくるような突き抜けた何かがない。あるいは、当ブログとしては、その突き抜けた何かが欲しい。彼ひとりに期待するのは無理だとしても、味付けさえ考えたら、もうすこしなにかもっと光った何かがあったのではないか。 バランスがいいだけでは駄目で、何か光った華が欲しい。その光ったものとはなんだろう・・・・・。著者は世代的にはデジタルネイティブと言えないこともない。何か新しいもの、今じゃ手に入らないなにか、そういうものを新しい世代に期待するのだろう。しかし、結局はそれを外側に求め続けていては、結局、当ブログにはフラストレーションが残るということになろう。自ら光る必要がある。
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2009.03.09 23:13:39
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2009.03.08
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カウントダウン! <第1期>最後の3冊・目
この手の本はひょっとするともっとあるのではないだろうか。先日もみかけたような気がするが、ほとんど興味を持つことがなかった。でも今日はなぜかこの本に目がとまった。なぜだろう。当ブログ最後の三冊の一冊にふさわしい本なのだろうか。いや、ここにきて目にとまったのだから、きっと意義ある一冊に違いない。 そのような目で見はじめれば、貴重でない本なんてない。偶然手にとった一冊をちらちらめくっては、うんちくを傾けて、あれやこれやをこじつければ、パジャマ・ブロガーの一日はつつがなくのんびり過ぎていくのである。その本が、芸術論だろうが、ジャーナリズム論だろうが、宗教論争だろうが、本を読むという行為にそれほどの大きな違いはない。 しかし・・・・・。この本は軍事論である。戦争論だ。つまりは殺人兵器、人間の欲望の最も極端な表現である兵器、軍事を述べた一冊なのである。そこにコンピュータの活躍が紹介されていようと、どうも納得がいかない。違和感が漂う。 そもそも、世界で初めてコンピュータとされているENIACは、よく知られているように、米陸軍が大砲の弾道計算用に開発されたものだ。p54「弾道計算とコンピュータは縁が深い」 うむ、そうであった。世界で最初のコンピュータは、部屋いっぱいに並べられた真空管がジャングルのようにつなげられた化け物のようなものだった。それは大砲の弾道計算に使われたのだった。このくらいの機能は、現在なら小さな数百円のプログラム電卓でさえ、兼ね備えているだろう。 しかもいまや私たちの生活に必要不可欠になっているインターネットだって、そもそものはリスクを分散するために考えられたシステムだった。コンピュータは、いつの間にか平和のシンボル、などと勝手に考えてしまったりしているが、実は、凶器そのものである可能性も充分残っているのだ。 93歳のジャーナリストむのたけじは言っている。 戦争は悲惨だ、兵士はかわいそうだ、あれは許せない罪悪だ、ということを百万回大声でしゃべったって、戦争をやろうとしている連中には、痛くもかゆくもないわけです。戦争が始まってから反戦平和運動をやったところで、戦争の論理とエネルギーに引きずられてしまう。戦争をなくすには、戦争をする必要をなくして、戦争をやれない仕組みをつくらなければだめです。かつて、そこまで踏み込んだ平和運動は一つもなかった。「戦争絶滅へ、人間復活へ」 p76 当ブログが戦争を礼賛するわけはない。しかし、反戦を声高に叫ぶだけで、何かが足りているのだろうか、という自問自答はいつまでも続いている。9.11以降、アメリカ軍の行いをどのように見るかは意見の分かれるところだが、あのアメリカ軍でさえ、このたび、新大統領オバマの支配下に位置することになったのである。 個人としての自立、個人のデータベースの確立、ネットワークとしての双方向性、当ブログの第一期はまずその辺を考えてきた。第二期は、コンシャスネスとしてのスピリチュアリティをもっと絞り込んだ形でインテグラルする方法を考えようと思う。そして、マルチチュードが「<帝国>」に対峙する時に自らのコントロール支配下におくべきとされる、軍事、貨幣、憲法、この辺がどう関わってくるのかを考えたい。 無理に当ブログの現在のコンセプトに置き換えれば、IT機器の進化の権化・コンテナとしての軍事、コンテンツ情報産業の集積としての貨幣、地球人意識のコンシャスネスの具現化としての憲法、などと、言い換えることができないでもない。コンテナとしての軍事はもろに先進的ITに支えられている。コンテンツとしての情報産業は、禿鷹ファンドに象徴されるグローバルマネーに象徴されるだろう。さて、地球政府の憲法はどんなものになるだろう。 日本国憲法9条を世界遺産にしたところで、単なるメモリアルにしてはいけない。実効支配できる有効かつ有意義なスピリチュアルの権化にしなくてはならない。老子に従えば、本当は憲法なんてなくていい。 理想の国家とは 大きいか小さいかはともかくとして、21世紀の地球人たちは、この丸い地球村に住むことになった。この村で幸せにくらしたいと思っているのは、み~んな同じなはずなのだが。 意外に思われることが多いかもしれないが、軍用品のコンピュータは、単にクロック周波数やメモリ搭載量といったスペックだけ見ると、民間で使われているパソコンよりはるかに劣るスペックでしかないことが多い。もちろん、これにはしかるべき理由があって、 といった事情がある。ともあれ、見た目のスペックが低くても、戦いの役に立てば困らないと言うのは事実だ。p284「イギリス海軍の原潜はWindows2000とPentiumu4で戦う」 人類に戦争という奴が必要悪として、どうしても根絶できないとしたら、どっちみち戦争はヴァーチャル化しているのだから、パソコンの対戦ゲームのようなもので済ましてしまうことはできないのだろうか。お望みなら、WBCみたいに東京ドームに大勢の人々を集めて、オーロラビジョンのような大きな3D空間を作り上げ、そこで対戦したらどうだろう。その日の戦死者は何千人で、どっちが勝ったか、なんて、熱狂的な一夜を過ごしたらいいだろう。 でも現実の戦争は、多くの犠牲者を出している。いまや地球上における戦争は、どっちが勝っても負けても、私たち地球人の敗北でしかない。ここはなんとしても克服しなければならない。いたずらに声高に反戦を叫んでも効果がないとしたら、目をそむけて山奥にこもって瞑想でもするか、というわけにもいかない。それでも問題は解決しない。諦めず、地球人の一人としてこの地上を歩き、目を見開いている必要がある。 「戦うコンピュータ - 軍事分野で進行中のIT革命とRMA」。同じ時代に同じ地球に生きている私たち地球人70億人は、まちがいなくこの問題をも共有している。
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2009.03.08 21:42:45
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カウントダウン! <第1期>最後の4冊・目 コンテナとしてのインターネットが限りなくクラウド化していく中、コンテンツとしてのインターネットは、限りなくアーカイブ化している。この本は図書館運営のプロたちがこのインターネット化の波の中で現状を語り、未来を考えている。インターネット化のなかで新聞記者を中心としたジャーナリストたちが危機感を持つのと同様に、図書館のプロたちは、インターネット化の中で、出版や図書館の未来に強い危機感を持っている。 インターネットの進化に関してはほとんど楽天的な推進派である当ブログだが、「Googleとの闘い」を読んでハッと気づいたことがあった。思えばあの本の著者ジャン・ノエル・ジャンヌネーは、ごく最近まで5年間にわたりフランス国立図書館長をつとめた人物だった。こちらの本の著者の一人である長尾真は京都大学の名誉教授でもあるが、現役の日本における国立国会図書館の館長である。 そして、多くの現役の図書館に関わる人々の立場から、現在の図書館の意義と問題が多角的に浮き彫りにされている。図書館、あるいはアーカイブズの定義は細かく言えば必ずしも定着しているものではないが、当ブログにおいては、図書館は出版物として流通しているもの集積であり、アーカイブズは、AVや郷土資料、行政出版物の集積、という理解のレベルでいいだろう。 当ブログは、コンテナとしてのブログ機能がなければ存在しなかった。ホームページ作成でもなく、メーリングリストでもなく、SNSでもなく、ブログであったことが、よくも悪くも当ブログの性格を決定づけた。いや、もっと言うなら、「楽天ブログ」であったことによって可能になったことと、限界になってしまったことがあった、ということが今では分かっている。 しかし、そのブログ機能を足かけ5年、実質3年間曲がりなりにも続けてこれたのは、身近な図書館、という機能があったればこそである。その図書館も以前から存在していてようやく私がその存在に気づいたということではない。図書館も変わったのだ。限りなく使いやすくなった。 当ブログにはたくさんのアクセスがある。日本国内からは、行政や地域プロバイダを通じてほぼ全都道府県からアクセスされていることが確認済みである。また驚くほど大学からのアクセスも多い。最初、東京大学からのアクセスが気づいたのが最初だったが、国内外おおよそ70ほどの大学からアクセスされていることが確認できている。そしてなお、大学の中でも一番アクセス数が多いのは東大からだということには、パジャマを着たままの、気ままなブロガーでしかない私としてもちょっと驚く。 確認のために大学のリストをアップして、参考までに図書館の詳細検索のページにリンクを張っているが、実は、これほどの多数の大学であったとしても、その蔵書を検索しようと思えば、全国の大学の横断検索を使えば、これほどのリンクは不要なのだ。Googleのトップページのように一個の窓に本のタイトル名か著者名を書きこむだけで、日本全国の大学の蔵書検索を利用することが、原則的には可能になっているのだ。 しかしこの変化も実はこの数年のことと思われる。コンテナとしてのインターネットがクラウド化するととともに、コンテンツとしての図書館も、インターネットの波の中で自らのアーカイブ化を限りなく進化させている。当ブログは現在のところ指折り数えて約1600ほどの書籍を読みこんできたことになるが、将来的に利用可能な形で提供されているコンテンツを利用しきれることは絶対にありえない。現在は手元にある図書館利用カード数だけでも二桁ある。今後、これを利用していくには、当ブログなりの、レファレンスがなければ、またまた情報の迷路に迷ってしまうことになるだろう。 図書館とアーカイブズだけでは我々が有する知識全てを網羅して管理できるているわけではない。暗黙知の世界が別に存在する。見方を変えれば図書館やアーカイブズは暗黙知を形式知に変換し、保存し、提供するという際限の無い努力を支える社会制度と見ることもできる。p44「日本における文書の保存と管理」 利用しきれないコンテンツがある一方で、更に限りなくアーカイブされなければならない暗黙知とともに、反面、アーカイブされることを拒む「知」もある。 菊池(略)ところが、日本ではどうかというと、それぞれの教団なんか仏教寺院、社寺なんかに良質の文書なりアーカイブズが、図書があるんですけれども、それが相互に利用できる形になっていないし、検索できるような形になっていない。あの辺のところをお互いに横につなぐような形のことができれば、随分日本文化力といいますか、そういうものが高まるだろうと思うんですね。 過去のエスタブリッシュメントたちが自らを保守しようとする意図はあからさまで、新しい動きには敏感に反応する。バチカンにとってはニューエイジの動きが気になる。バチカンは過去にたくさんの間違いをした。そして現在でも多くの迷信の源泉になっている。バチカンもオープンソースとしてその重い扉を開かなくてはならない。そう容易でないが、遅かれ早かれ、バチカンシステムはいずれフェードアウトする。 長いこと神秘の扉に閉ざされていたチベット密教は、歴史ドラマの狭間の中で自らの秘すべき教義を、静かにオープンに紐ときはじめている。国内外のスピリチュアリティの流れもいずれは、インテグラルされる運命にある。日暮れて道遠し、まだまだ未来のことにように思えるコンシャスネスとしてのインターネットにおいても、明らかな変化が起きている。 クラウド・コンピューティングのブラック・ボックスのシステムには手を出せず、アーカイビングされた膨大な知の海を活用しきることなど思いもつかないが、コンシャスネスとしてのスピリチュアリティ・インテグラルには、まだ当ブログとしてコメントをし続けたい。もし今後も当ブログが存在し得るとするならば、この点になんらかの足がかりを見つけることが肝要となる。 コリエロさんは、インターネット上の若者たちのつながりを大人たちが過小評価することをいつも不満に感じていたという。ネットで育まれた友情やつながりは、現実社会にも大きな影響を与えると考えていたコリエロさんは、ネット上に若者たちの「国連」をつくりだしたいと考えたのである。「デジタルネイティブ」p138「ネット上に『国連』をつくりだせ ~デジタルネイティブの『フラット革命』~ 我々は今、新しい国連を作ろうとしているのだろうか。あるいはGoogleがつくろうとしている「世界政府システム」の立ち上げに参加しているのだろうか。 日本におけるデータベースの低迷の背後には、日本人の精神構造があるのではないかと思われる。そこには、いろいろな複雑な問題がある。たとえば、革新的なパーソナルコンピュータ製品はなぜ日本ではできなかったか。日本では、そのための部品はほとんど生産されている。結局、全体を組み上げることができなかったのであろう。日本人は、全体を構想するよりも、細部の彫琢にこだわるのではないか。「角を矯めて牛を殺す」という社会風潮である。p102 山崎久道「データベースの思想」
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2009.03.08 16:35:32
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2009.03.07
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カウントダウン! <第1期>最後の5冊目
日本ではクラウド・コンピューティングと言う単語が流行語化しそうになっているので、この「クラウド化」というタイトルがついているのだろうが、原書のタイトルは「The Big Switch」だ。サブタイトルも「ビジネスモデルの構築の大転換」という日本語版に対して、原書のほうは「Rewiring the World, From Edison to Google」である。一冊の本でも社会の在り方によって、受け取られ方が大きく違う。 クラウド・コンピューティングのクラウドとは雲の上ということであり、いわゆる「ウェブ進化論」の中でいわれた「あっち側」と同義ととらえてもいいのだろう。巨大なスーパーコンピュータに対して登場したパーソナル・コンピューター。一時的に個人の手に渡ったと思われた人類最大の発明コンピュータは、インターネット・ネットワーキングによって、さらに進化した。個人にきわめて身近な存在になりつつ、クラウド化してブラックボックス化し、なお限りなく遠くへ行ってしまうのか。 コンテナとして極度に進化するコンピューティング、集合知として加速度的にインテグラルし続けるコンテンツ。しかし、そこからさらに向こうのコンシャスネスとしてのコンピューティングの真の姿はまだ見えて来たとは言えない。 インターネットは、情報処理機械を接続するだけではない。それは人々をも接続する。インターネットは我々を相互に接続し、我々とコンピュータを接続する。我々の知能はソフトウェアコードやマイクロチップに組み込まれていく。我々がオンライン化するときに、我々はインターネット上のノードとなる。これは単なる比喩ではない。それは、ハイパーリンク構造を反映したものであり、その構造がウェブと、我々がうェウを利用するやり方を最初から規定していたのである。インターネットと、インターネットに接続されたすべての装置は、我々のコマンドに反応するだけの受動的なコンピュータではないあ。それは考えるコンピュータである。たとえ初歩的なものにせよ、我々の考えと要求を積極的に集めて分析する。オンライン上で行う選択を通じて、我々が表明する考えと要求ーそれは、何を行い、どこへ行き、誰と話し、何をアップロードしてダウンロードするか、どのリンクをクリックして、どのリンクを無視するか、ということである。p260 なにもプログラマーと気負うこともない。我々が日々キーボードからインプットし、アウトプットしている行為自体が、巨大コンピュータを賢くし続けているのだ。 では、私たちの頭脳はどうなるのか。我々がインターネットの巨大な情報倉庫を、自分自身の記憶の延長あるいは代用品としてますます過大に依存するにつれて、我々の思考方法も変化するのだろうか。我々が自分自身を理解し、自分と世界との関係を理解する仕方は変化するのだろうか。我々がより多くの知的情報をウェブに投入するにつれて、我々個人もより知的になるのだろうか、あるいは知性を失うのだろうか。p271 コンピュータは我々の思考をつないで、スケールやスピードでは遥かに我々を凌駕するだろうが、知性のレベルでは我々を超えていくことはないのではないだろうか。そしていつか、かならず問題になるのが、コンピュータと人間の霊性との比較だ。コンピュータに死という概念はないが、人間にはほぼ唯一の絶対的価値基準としての死がある。 霊性といったりコンシャスネスといったり、スピリチュアリティといったりして、統一感はないが、どれほどコンピューティングがクラウド化しても、越えられないものが、このいわゆるコンシャスネスだ。あるいは、この部分以外は、クラウド・コンピュータがやり遂げてしまうだろう。この本は、地球上の現状を理解するには役立つが、コンシャスネスについての足がかりになってくれているとは言い難い。
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2010.09.05 00:34:18
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2009.03.06
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<第1期>ラストの6冊目 ![]() 「Om Mani Padme Hum: The Sound of Silence, The Diamond in the Lotus」 <5> Publisher: Rebel Publishing House, Germany ★☆☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★★★★ Om Mani Padme Hum This mantra was not composed by a poet. This mantra was conceived, not compsosed - conceived just as a woman conceived by the mystics. Om Mani - Ahh! The Diamaond! The diamond is the indestructible part of our being. Om Mani Padme Hum And the Padme, the lotus, is our changing circumference. The diamond is the center, and the lotus is the cyclone, and we are the center of the cyclone. And what is hum? It means nothing but emphasis. It simply means, as when you strike a rock with a hammer you say "Hummm!" That is Hum. And the mystics have to strike on the rock of your unconsciousness - "Hummm!" What a beautiful expession: the diamond and the lotus together. They are not colleagues. The diamond lives in a totally different world. The lotus knows nothing of the diamond, but the mystic has brought them together. The mystic is the magician, he brings things together which cannot ordinarily be brought together. Togetherness is his whole work and this mantra represents the ultimate togetherness of the mortal and the immortal. 表紙見返しより
いったん引用部分の<保存>のつもりが<公開>ボタンを押してしまったようだ。あとで気がついて削除しようかなとも思ったが、まぁ、それもよからんと、そのままにした。本当は、やはりこのままでいいのだ。自らのマスターの言葉はそのままに受け入れるのが一番楽で、一番難しい。 しかし、と考える。やっぱり、このセンテンスに何事かコメントを加えようと思っていたのだ。その自分の思いはどうするのか。別なエントリーで書けばいいのか、あるいは、そのまま飲み込んでしまうか。いったんタイムラグがあったために、自らの思いにはなにごとか変化があっただろうか。 当初、当ブログをスタートした時は、Oshoの本に触れることなど思ってもみなかった。むしろOshoの本はあえて避けて、いままで読んでみたことのない本を取り上げてみようという意識のほうが強かった。実際そのようにスタートしたのだが、結局、徐々にOshoの本に戻り、新たなる次元の再発見ということにもつながった。 それにしても、ブログに彼の本について書くことは、本当はあまり簡単なことではない。あるいは書きたくない。彼の本について書いてしまうことは、自分のことを書いてしまうことになり、まるで丸裸になった自分を公然とさらけ出しているような、恥ずかしさを通り過ぎて、苦痛さえ伴う行為でもある。 当ブログも21番目のカテゴリを残すだけとなり、108の定量も残すところあと数冊というところまできた。何をどう読みこもうか、というような意図はこの段階ではどうもコントロールが効かない。なりゆき任せだ。 この本には当初引用しようと思っていたところが、たくさんある。だけど、それはやめよう。引用したところで、それは部分的行為にとどまり、引用するなら、結局全文引用したくなるに決まっているからだ。ここは、じっくりと自分なりに目を通しておくということで、しめくくりとしておこう。 オンマニパドメフム、いつの間にか、当ブログのサブテーマになっていたこのマントラ。ますますその深味が増してくる。「The Sound of Silence, The Diamond in the Lotus」 当ブログは、このままフェードアウトして、静かにサイレンスの中に入っていこう。蓮の中の宝珠。生きてあることのエクスタシーのただなかにいよう。
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2009.03.07 20:29:09
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テーマ:私のPC生活(7267)
カテゴリ:バック・ヤード
<第1期>ラストの7冊目
<1>よりつづく コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、の三本柱からチベット密教を見た場合、バランスよくこの三角形の上に成り立っている本は少ない。いや、当ブログの読んできた本の中にはほとんどないと言っていいだろう。そう思って振り返った場合、ほぼ唯一と言って思い出されるのは、この本だ。 田中公明には、他にも「曼荼羅イコノロジー」など魅力的な本が多いが、世代的にもパソコン少年的生い立ちを持ち、チベット密教研究の途上で、現代テクノロジーを積極的に取り入れてきた経緯がある。 たび重なるイスラム教徒の侵入により、インドで仏教が滅びようとしていた12世紀の末、ネパールのカトマンドゥ盆地に避難していたインドの密教行者ミトラヨーギンは、トプ訳経官(1173~1225)の招聘を受け、1198年から99年にかけてチベットのツァン地方にあるトプ寺に滞在し、彼がマスターしていた曼荼羅の全レパートリーをチベットに伝えた。 前回読んだ時もそうだったが、この最初のイントロだけで、私などは震え上がってしまう。「ミトラヨーギンの108曼荼羅 コンピュータ・グラフィクスを用いた曼荼羅の図像データベース」・・・・このタイトルだけで、私のなかでは★がフルカラー、レインボーカラーでチカチカ点滅する。 現在はGoogleがインターネット上で提供するサービスを中心として進行している地球上の文明インテグラルだが、地球人スピリットの集積としてのチベット密教が、曼荼羅と言う意識の集積からコンピュータ・グラフィクスに転位されることによって、新たな地平がひらかれたのだ。 CGのソフトウェアは、ドロー系とペイント系に大別される。ドロー系のソフトは、データを座標系で記述するため、どのような高解像度でも、なめらかな円や曲線が出力できるという利点がある。しかしドロー系ので高解像度のCGを制作した場合、かなりのCPUパフォーマンスを必要とする。 そこで著者は、複雑なプランをもつ曼荼羅の輪郭線のみをドロー系ソフトで制作した後、これをプリントアウトするサイズによって適当な画素数の画像データに落とし、グラデーションやテクスチャーを含む彩色は、ペイント系ソフトで行うという方式を採用した。 この方式では、将来コンピュータやプリンターのパフォーマンスが向上し、さらに大きな画素数のデータが制作できるようになっても、ドロー系ソフトで制作したデータはそのまま、あるいは若干の改良を加えるだけで使い回すことができる。なお1800万ピクセルのデータでは、現在市販されている最大のプリンターで1メートル10センチ四方にプリントアウトしても、ピクセル・データであることによる画像のギザギザは、よほど注意して見ないと気づかない。p11 チベット密教経典における、色と形とその位置のシンボリズムは非常な重要な意味をもっている。伝統的にマスターから弟子と口伝として伝えられ、その内奥を理解するにも膨大な時間を要しながら伝承されてきた。イニシエーションにも使われるこれらのマンダラ図は、必ずしも絵や壁画として固定されて保存されるものとは限らない。モノによっては、使用されたあと、すぐ消されて単なる砂粒として川に流されたりするという。 そのようなマンダラの構造をCGに置き換える作業についての是非も問われないければならないが、ブッタから始まる仏教サイクルの2500年経過した現在の地点を考えるとき、このような形でCGにおいて新たなるマンダラ研究が始まるということは、大い喜ばしいものだと考える。 ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」を待つまでもなく、人間の意識(コンシャスネス)を理解するには、色と形は重要な意味をもっている。長年の歴史と伝統の中でチベット密教が人間の意識をインテグラルしてきたと考えて場合、その意味をさらにオープンなものとして、地球上の共通した認識にすることも可能なはずである。 このような伝統の育みと、新たなる資料の発見と、テクノロジーの発展、そして研究者たちのとびぬけた発想や業績によって創り上げられたこの本は、コンパクトではあるが、実に多くのメッセージがいっぱい詰まった一冊である。容易にその神秘を解読できるものでないが、座右において、折にふれて紐といていきたい、とても貴重な一冊である。
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2010.02.23 14:55:15
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2009.03.04
カテゴリ:バック・ヤード
<第1期>ラスト8冊目 彼の本は売れているのだろうか。ひょっとすると私が推測していたよりも売れてはいないのかもしれない。図書館を検索すると、割と彼の本の蔵書は少ない。熱狂的ファンはいるのかもしれないが、一般的には広い層から支持されているとは言えないのかもしれない。特に日本では、ある種の色付けのなかで紹介されてきたから、敬遠された嫌いもないではない。 かくいう私も昔から気になる作家ではあるが、いまいち、周辺の狭雑音にさえぎられて、なかなか素直に胸元を開けることができない時代が長かった。今回、当ブログの読書モードのなかで「グレース&グリット」や「存在することのシンプルな感覚」を読むことによって、だいぶ彼のイメージは変化した。 この本は彼の最新刊であり、ゆっくり読んでみたい本であったが、収めている図書館は少ない。人気がなくなってきているのだろうか。それとも、マニアックで偏った人気になっているのだろうか。今回は、前半はわりと素直に、共感しながら読めたところが多かった。後半はまたすこし急ぎ足になって、文字列だけを目で追うことになった。 美も、善も、真も、あらゆる主要な言語において、一人称、二人称、三人称の別名なのである。なぜあらゆる主要な言語に見られるかといえば、美も真も善も、すべて実在(リアリティ)の非常に現実的な次元だからである。三人称(それ)は、客観的な真理を指し、科学によって最もよく探索される。二人称(あなた、私たち)は、善を指す。それは私たちすなわちあなたと私が、お互いをもてなす方向を指す。誠実に、正直に、敬意を持ってお互いをもてなすこと、言い換えれば、基本的な徳性(モラリティ)を指している。そして一人称(私)は、自己と自己表現を扱い、芸術、美学、見る者の目(アイ、すなわち「私」)に宿る美である。 日本語において一般的には真善美の順番で語られることが多い。彼がいうように順番はどれでもいいのだが、赤ちゃんが最初はおっぱいをみつけ、次に母親をみつけ、最後に泣いている自分に気づく、という順番があるとすれば、科学、芸術、徳性という並びなのだが、あまりこだわる必要はあるまい。科学(サイエンス)と芸術(アート)はわりとすっきり固定した言い方になるのだが、三つ目はなかなか一定した言い方はない。宗教、意識、道徳、徳性、倫理、など、さまざまな言い方がせれるが、もっとも卑近な言い方は宗教だろう。しかし、この言葉は手垢がつきすぎていて、万人受けするズバリという言い方ではない。 当ブログでは、この第一期最終期において、コンテナ(科学)、コンテンツ(芸術)、コンシャスネス(意識)、という言葉の並びを好んで使っている。コン、という接頭音のゴロのリズム感がいいのと、宗教や道徳、というより「意識」と言ったほうが、臭みがすくないように思うからだ。 学者にしろ、普通の人にしろ、(英語圏の)人々が「スピリチュアル」という言葉の使い方を分析すると、ほぼ4つの主要な意味があることに気がつく。もちろん、普通の人々は、こうした術語を使わないが、明らかに「スピリチュアル」という言葉は、(1)どのラインでもその最も高次なレベル、(2)別の一本のライン、(3)状態の至高体験、(4)特定の態度という4つの意味で使われている。私のポイントは、これらの用法のどれもが正統的であるし、実際の現実(リアリティ)を指し示しているということであるが、私たちは、この4つのうちのどれを意味して「スピリチュアル」と言っているのかを区別しなければならない。そうしないと、会話(議論や対話)は果てしなく混乱する。そして、どこへも行かない。さらにすでにもう終わった議論を繰り返して、重荷を増やす。私の人生で、これほど、多くの人が、これほど多くの言葉を費やして、これほど意味のない会話をする「単語」はない。p146 この辺は、どうも日本語としてはあまり素晴らしい翻訳とは言い難いが、きっと英語の原文もわかりにくいところなのだろう。また、日本語でも、近年この言葉は流行語のひとつに数えられているのだが、実にわかりにくい単語のひとつであることに変わりない。 当ブログでもタイトル名にこの単語を使っているわけだが、最も高次で、もうひとつ別のもので、至高状態で、特定なもの、というイメージに変わりはない。そして、その高次で至高で、もうひとつ別な特定なものとは、指し示せないもの、サウンド・オブ・サイレンス、沈黙、無、空を意味することになる。言葉で表せないものを表そうとするのだから、もともと合理的な話ではない。つまり無理なのだ。 自分は、「レッド」「アンバー」「グリーン」「ティール」「ターコイス」「インディゴ」「ヴァイオレット」「ウルトラ・ヴァイオレット」の、どこにいるのだろうか。p170 著者は、この本において、主体の意識の在り方を色の段階で表そうとしている。赤、オレンジ、グリーン、青緑、青、紫青、紫、薄紫の、その位置をもとめようとする。いかにも統合と分析を繰り返して、新しい味わいの「スピリチュアリティ」を演出する著者の技だが、意識の状態を虹色のそれぞれに対応させようとするのは、かならずしも著者の独自な発想でもなければ、めずらしいことでもない。 インドのヨガやチベット密教の7つのチャクラは、これら7つ(8つ)の色に対応させてあることが多い。もっとも虹のグラデーションには境目がないのだから、何色とは区別できないのであるが、わかりやすいところで七色の虹、などと言われていることが多い。ここから抽出されて、赤、黄、青の三色が使われることもあるし、赤、緑、青が使われることもある。また、黒、赤、白の三原色が使われることもある。 科学がスピリチュリティを拒絶するのはわかるが、なぜ、人文学全体が、攻撃的にスピリチュアリティ、内省、意識、主観性を拒絶したのだろう。p399 著者の疑問や発想は、シンプルなものだが、その思考や論理づけ、解説は難解になってしまうことが多い。さまざまな潮流からたどりついた多岐に渡る概念を「インテグラル」しようとするから、そうならざるを得ないのだが、インテグラル「しよう」とするところに無理があるのも事実なのだ。 インテグラルしようという男性原理ではなく、さまざまな潮流を、流れ着いた順に自然に受け入れていく体制だけを作ってしまえば、もっと女性原理的な、しっかりとシンプルな体系ができあがると思うのだが、著者においてはそれはかなっていない。 スピリチュアルな本の著作家は、カプラからディーパック・チョプラに至るまで、神秘主義には科学的な根拠がある、ということを示せば、スピリチュアルな世界観あ人文学にも受け入れられるだろう、と感じている。しかし、それはまったくの間違いである。敵は決して科学ではない。どっちみち科学は聞く耳を持たない。敵は間主観主義であった。スピリチュアリティが、量子力学や、ダイナミック・システム理論や、カオス理論や、オートビエーシスで根拠付けられると示そうとしたことで、彼らはまっすぐに間主観論者の手に落ちたのである。p407 禅システムの理解者であり、チベット密教タントラの体験者でもある著者だが、その「悟り」は、かならずしも万人のハートを打つような境地に至っている、とは言えない。むしろ、彼がとびぬけた知性を持ちながらも、なお到達しえないスピリチュアルなポイントに向おうとする、その姿の生々しさに、この数十年の時代をともにしてきたジェネレーションは共感するのであろう。 当ブログにおけるコンテナ→コンテンツ→コンシャスネス→の循環システムのなかで、まだつながり得ないミッシング・リンクがあり、いずれはそのリンクはごく当たり前につながるものとするならば、そのヒントのいくつかはこの本や、彼の仕事になかにも隠れていると思う。そういう期待をしてしまう一冊である。
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2010.02.16 09:23:06
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カテゴリ:バック・ヤード
<第1期>ラスト9冊目 著者の本は、いまいちタイミングが合わなかった。理由のひとつは、彼が情報科学の専門家であり、一歩も二歩も前を歩いていて、こちらがようやく追いつく頃にはもっと先から社会を見つめていること。二つ目は、マルチタレントでありながら、徹底した科学者であること。合理性、理性を決して失わないこと。 三つ目は、二つ目の裏返しなのだが、彼は小説家でもあるのだ。どんな小説を書いているのかまだ読んだことはないが、左脳的な部分からだけアプローチしていただけではこの著者の全体像は見えない。右脳的な部分はキチンと分けている、というところが、私などからみるといかにも左脳的なひとなのだなぁ、と思ってしまうのである。 さらに、彼は国立大学の先生である。しかも学界をリードしなくてはならないような立場にある。そういう立場からの発言、ということが、彼の研究全体に影響があるのではないだろうか。つまり、クラスのいじめられっ子でもなければ、ちょっと不良な暴れん坊でもない。優等生の学級委員長的な立場なのだ。 どっちかといえば、不良なひょうきん役を買ってでている当ブログとしては、意見があわないというより、肌あいが今いちあわないのである。彼の意見は意見で素晴らしい。とくにこの本などはピカピカ光っている。出版された当時に読んでいれば、この本は、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスにおいて、すべて★5であったはずである。しかし、1999年当時、私はこのような本を読む余裕はなかった。問題意識も不足していた。 2009年になってこの本を読んでいるということは、彼は当ブログより10年先を行っている可能性がある。だから、彼の言説には耳を傾ける必要があり、今後も彼の動向をうかがい、すこしでもその距離を縮める作業が必要だ。しかし、お互いの立場の違いを理解して、適当な距離間をたもつ必要があるだろう。漫才だって、ボケとつっこみの役割分担がある。この人は、形としてはピン芸人風ではあるが、けっこう漫才派なのではないか。しかもボケ役として。 彼はある意味、先を読み過ぎてペシミスティクに陥りやすい。現在では、時代の潮向に警鐘を鳴らす役割を買っているかのようでもある。でもそれって、ちょっとジジ臭い。すでに還暦を迎えられた著者に向ってジジ臭いとは、ほめ言葉なのか、けなし言葉なのかわからないが、すくなくとも、科学は世の中をリードするものであるし、ましてやその先端技術としての情報科学などは、リードの最先端であるべきだ。こちらがそう最先端であるべきだ、と勝手に期待しているのだが。 登山隊の本当のリーダーは隊列の最後に位置するという。先頭を切るのは、サブリーダーだ。まん中には、私のようなビギナーや一般登山家が挟まれる。もし、現在のこのウェブ化の波を登山に例えるとしたら、彼は隊長にもなぞらえてしかるべき人物だと思う。しかし、惜しむらくは、彼は、隊列の先頭に立っていて、旗振りをしながら、ここは危ない、あそこは避けよ、目指すはあの頂上だが、その前に足元の岩場を見よ、と、あまりに能書きが多すぎるような気がする。だから、せっかくの道々の風景も見落としそうになる。 彼には隊長として、最後尾で、しっかりと隊列を見守ってほしい。登山隊全体を山の頂上まで運ぶには、彼の存在は絶対に必要だ。しかし、あまりしゃしゃりでないで、決めるところは決める、という男らしさを期待する。この文脈で言えば、先頭で旗振り役を買ってでているのは梅田望夫あたりか。彼のオプチミズムには、危なっかしいところがあって、実は大変危険なリーダーでもある。その副隊長をじっと最後尾で見守る本当の熟練した隊長、そのような役割に徹してほしい。この本を読んでいて、まずそんなことを感じていた。 さて、<情報>と<心>とは直観的にはどう結びつくのでしょうか。 <心>をテーマとする情報学においては、いわゆる<生命情報>の定義だけではあまりに広すぎるというものでしょう。 心を一種の「情報処理機械」とみなす見解は、現代社会ですでにかなりの支持を集めています。神秘主義を好む人たちは、物質科学では説明のつかない超自然的な何かが、<心>のなかに潜んでいるという見解を好みますが、少数派と言えるでしょう。 たとえば「精神医学」といった概念も、大昔は存在しなかったのですが、多くの人々がそれを容認し、今では医者の治療行為についても社会的常識が成立しているわけです。患者がイライザ(注 )を精神分析医とみなし、それで悩みが解消するなら、中身のプログラムが張りぼて五流品であろうと、立派な道具と言えるかもしれません。そもそも「実体」などというのは、よく考えてみると雲をつかむように不分明なものではありませんか。p50 情報化社会におけるヒトの心(これは本書ではとりあえず「サイバーな心」と呼ぶことにします)は、これまでのヒトの心とはかなり異なる特質をもっています。くわしくは次章で述べますが、このことは、コンピュータを中心とするデジタル情報技術が、アナログ情報技術とは違った多様なイメージの自由自在な操作を可能にするためです。とくにマルチメディア技術やヴァーチャル・リアリティ技術はこういう潮流と関わっています。p132 1980年代の人工知能から1990年代のマルチメディア / インターネットというコンピュータ工学の流行の推移は、モダニズムの極点において「身体性の復権」という反転が生じたことを、みごとに象徴しています。マクルーハンの予言は的中したのです。 マルチメディアやインターネットで地球村ができ、世界市民が参加して全感覚をとりもどす、といった楽天主義を語る人々がいますが、彼らは、情報化社会が一面では近代化がいっそう進む抽象的な社会であるという点を度外視しているのです。p189 1997年3月、米国カリフォルニア州でカルト宗教集団「天国の門」の信徒たち39人が集団自殺しました。彼らは全員、真新しいスニーカーをはき、衣類を旅行鞄につめ、旅立つような格好をしていたそうです。ヘールポップ彗星の尾のなかに隠れているUFOが、彼らを「より高い世界」につれていってくれるはずだったからです。 考えてみると、「情報が多すぎる」とは言いますが、「知識が多すぎる」とはあまり言いませんし、まして「知恵が多すぎる」と言うことは決してありません。つまり、情報とは「事務的・機械的に処理するもの」であって、われわれの生活に深みを与えてくれるものとは受け止められていないのです。p221 「サイバーな心」というと、すぐに脳神経にシリコンチップが直結されたサイボーグを思いうかべがちです。しかし、そのようなものを追求するのは空しいでしょう。むしろ急務なのは、ヒト特有の「言葉の力」を高めることなのです。p223 国民国家が「国語」を独占できる時代は、過去のものになりつつあります。もちろん、21世紀にも国家がなくなることなどないでしょうが、その形態や機能は、絶対的な政治単位からゆるやかな国際連合体の要素という方向に変わっていくかもしれません。そういう潮流のなかで、いかに自分の言葉をとらえ直し、自分のアイディンティティを見つめ、地球上のコミュニケーションに参加していくか、それがいま、問われているのです。p225
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2009.03.04 11:52:23
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2009.03.03
カテゴリ:バック・ヤード
<第1期>ラスト10冊目 日本の政治はホトホト混迷を極めている。わずかなチャンスをもお互いにつぶし合っていて、どうも息たえだえの状況ばかりが連続している。苦情を言い始めたらキリがないのでほどほどにしておくが、それにしても、なんとかならんのか、とイライラしてくる。 当ブログ、すでに第1期の定量まで残すところあと10冊のみとなった。いよいよカウントダウンとなると、あれもこれもといろいろ読みたい本がでてきて、とても10冊には収まらない。あれとこれを関連付ければ、こうなるのではないか、などと考えていると、さらにリストは増殖を続けてしまう。 ここは、諦めが肝腎。もともとこの「バックヤード」カテゴリはおまけのカテゴリであって、本来、前のカテゴリで終わりになるはずだったのだ。ここはさっさと切り上げてしまおう。人間、いつかはこの世にお別れをしなければならない。世の中は卒業式の真っ最中。当ブログも春に向けて、一度卒業しなければならないステージがありそうだ。 オバマ大統領についての本はたくさんでているが、図書館にリクエストしても自分の番までくるまで時間がかかりそうだ。しかし、この時期、オバマについての情報はたくさん流れており、必ずしも本にたよる必要はない。ましてや、オバマが大統領になったのは、スタート地点なのであって、決してゴールではない。本当の真価が問われるのはこれからだ。 オバマはブラック・ケネディにになれるのか、ブラック・カーターに終わってしまうのか。少なくとも4年間はオバマがリーダーになる。課せられた問題は限りなく重い。その中にあっても、オバマのカリスマはまだまだ輝いており、どこまで仕事をやりとおすことができるのか、世界中が注目している。 オバマの新鮮さは、ちょっと間違えば非力さに通じる。共感を求める分かりやすい政治ではあるが、理想を掲げつつ、どこかで早めに妥協を求めてしまう政治スタイルではないか、とも危惧される。この本は、ふたりのアメリカ研究者が、総合雑誌の企画のような形で対談をしている。その解説に特段の新しいものを感じることはないが、オバマはこのような一見クールな人々でさえ、涙ぐんでしまうような感動を呼ぶ名演説家であることを証言している。 新しい時代には新しい人間が生きていく、というのは当然のことだ。オバマに期待するところは限りなく多いが、誰か突出した政治家にすべてを託すというスタイルは避けなければならない。広く多くの一般の人々が参加していくことが大切なのであり、無関心層を生み出すような構造であってはならない。 それにしても、日本の政治状況は、惨憺たるものだ。こちらも涙がでる。オバマに対する共感の涙と、まったく反対の意味においての涙だが・・・・・。 1998年、クリントン大統領が日本を素通りして中国を訪問し、「ジャパン・パッシング」だと騒がれた時がありました。 米中をめぐる最大の争点が、同じ「T」でも、「台湾(Taiwan)」から「チベット(Tibet)」に変わるかもしれません。 う~む、政治は必要なものではあるが、政治の話をしていて憂鬱になるというのは、やはり幸せなことではない。オバマは新しい政治を切り開くだろうか。
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2009.03.04 10:06:54
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