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悪評高い「ゆとり教育」は、タイトルが悪いのではないか、と思います。幅と深さの現場自由裁量が大きくなる教育という意味なら、反対があるはずがないと思うのですよ。
そうすると、イメージとしては、より高度なことに触れる方向に進むはずです。実は、高度なことは難しいというのは、誤解で、基礎的なことこそ最も難しいのです。高度なもののアシスタントがあってこそ、基礎的なことの理解も進むことが多いと思います。たとえば、分数の計算よりも、指数・対数のイメージを掴む方が容易なように。原子分子の理解を早くしてしまった方が、理科は理解しやすいように。社会は株式会社の運動法則を理解した方が、理解しやすいように。 それと、「心の教育」と言いますと、またまた悪評プンプンですが、道徳のお題目を教え込むよりも何よりも、先生の人間性が生徒にどう影響を与えているか、の研究の方が最も重要だと思います。 大人になって、振り返ってみて、教えられた教科書の内容は忘れても、先生の人柄だけは、しっかり焼き付いていると思います。そして、そのイメージが子供の人間理解・社会の理解にどれほど大きな影響力をもって、人生を歩ませているか、は、冷静に考えれば、とっても恐ろしいことです。 そりゃ、地域の大人だって、もちろん、親も、絶大なパワーをもっています。そして、当然、あたりはずれがあります。しかし、学校の先生は、社会が総意でもって、意識的に子供のために、あてがう人格じゃないですか。最高の人間的影響力をプレゼントしたいじゃないですか!? 誤解しないでください。先生の人格を縛ろうなんていう発想とは反対です。そうではなく、先生の良さが阻害されている因子を、社会の創意工夫でもって、取り除いてあげて、先生がいつも生き生き溌剌している社会になるのが、教科の研究よりも何よりも重要なことだと思うのです。 人間は相手からのメッセージの大半は、言葉以外から受け取ります。同じ言葉でも、表情一つで意味は全く逆になります。 こんなエピソードをご存知ですか? ある劇作家と声優が、レストランで仲間たちと食事中、観客を感動させるのは、ストーリーか声かで議論を始めたのです。声優は、ストーリーがさほど面白くなくても、声で観客の心を動かせると主張し、劇作家はどんな声を出しても、場面や状況がしっかり設定されていなければ、観客を感動させることはできないと反論しました。 すると、ある声優が「ここにあるメニューを読むだけで、人を泣かせることもできますよ」と言い出して、じっさいにメニューの「朗読」を始めたのです。「サラダ、グリーンサラダ、500円、シーザーサラダ、800円、大根とジャコのシャキシャキサラダ、700円…」といった調子で読み進むと、何と聞いている人には、本当に涙を流す人まで現れたのです。 朗読に、「深い悲しみ」が含まれていれば、もしかすると聞き手の過去の思い出、たとえばレストランでバイトしていた時代のつらい体験記憶を呼び覚ましたのかもしれません。 まして、子供相手でしたら、声の調子、表情、身振り手振り、瞳の大きさは、言葉そのものの意味よりも重要です。 その意味でも、ある医学の先生は、大学の先生よりも、高校の先生、高校よりも中学校、中学校よりも小学校、小学校よりも幼稚園・保育所の保母さんこそが、高い給料をもらうべきだと主張されています。 その前提には、いい表現能力を身につけるには、内面の育成管理が欠かせないからです。 しかし、現状では先生の内面のケアはほとんどなされていないようです。耐えきれなくて、障害が起きてから、落ちこぼれのように扱われるだけです。 先生を非難しても、全然はじまらない。先生は地域の顔であり、善意と願いの結晶なのです。先生が苦しんでいるときこそ、地域が支えて笑顔を取り戻してあげたいものです。 もし、もしですよ、先生を本当に地域が支えているという実感を双方とももつことができれば、その地域の自治力はすばらしく上がるのは100%保証されています。 というのは、先生のサジ加減一つによって、子供の地域の人々への対応が変わり、それによって、地域のおっさん・おばさんが、損得をすっかり捨てて、一気に立ち上がる事例を思い起こせばわかることだと思います。 子供は地域の核兵器なのです。そしてその発射ボタンの一つを先生が握っているのです。その人格に関心をもたない方が不思議な話ですよね。 ですから、実は、昨日県の地域振興の方との懇談のときにもお話したのですが、学校は教育委員会任せではなく、地域振興の立場から、重大関心をもつべきなのです。 話のミサイルが軌道をずれてしまったので、ここで失礼します。 昨日はたくさんのレス、ありがとうございました。ドンドン・ストレス解消のつもりで書いてね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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