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参加している教育MLで、最近の学校の多忙化の原因とその意味を今、議論しています。
そこで、結局見えてきたのは、「過干渉」です。先生だけでなく、親や地域社会が、過剰な手とり足取りを進めさせています。昔なら考えられないことにまで先生が気を遣い、準備をしなくてはいけなくなり、その結果、本当に気を遣うべき生徒の大事なポイントに対応できなくなっています。 実は、これは、学校のサービス水準としての問題点よりも、もっと深刻な障害を子どもたちに及ぼしていることを声を大にして叫びたいです。 その特徴的なことの一つに、ノートの書き方を、細かいところまで徹底指導していることがあります。先生の言う通りに一言一句、間違わずに、指定された場所に、指定された色で順番に書いていくのです。 ある意味、それは、ADHDの子を指導するのに便利であったりします。ノートの使い方に慣れるためにも必要なことでしょう。しかし、この間 うちの塾で、「これを自分なりにまとめてノートに書きなさい」と言ったら、何と、自分の意志では書けないのです。どういうレイアウトで、何と書いたらいいか、いちいち指示を求めるのです。 マンガがとても得意な子に「自分なりにわかりやすく、イラストを入れて、もっと楽しいノートにしたら」とアドバイスしても、勝手に色を塗ったりしてはいけない、と指導されているので、ノートに色を塗るのを怖がるんです。まして、イラストとか入れるなんて、とんでもない、と逆に食ってかかられます。 自分なりのイメージでノートを書く力がスポイルされているのです。これでは、学力低下は当然だと思いませんか? テスト前にはっぱをかけられたり、点数を管理してもらったり、悪かったときに対策プリントを出されたりといった「懇切丁寧な指導」をされたのでは、かえって本人のためにならないことは、冷静な判断をされる方には自明のことと思います。試験は、自分の力で対処する訓練の意義こそ大きいのに。結果はどうあれ、悩みながら、方法も含めて自力で解決する訓練の機会なのです。 実は、これらのとんでもない、あっちむいてホイは、「どういう若者を育てたいのか」という目的意識を喪失しているから起きることだと思います。 これからの日本が必要としている若者は、「自己の責任の下でやりたいことをやれるようにする」人材のはずです。 言い換えれば、どんな環境であれ、自分の光を放ち続ける人間です。これには、限りない自分自身の深い部分への信頼と愛を育てなければ生まれません。 それなのに、一挙手一投足指示され、失敗しないように気をつかわれ、親やみんなのために「勉強してあげている」という意識を育てているのです。大人の苦労は、よってたかって子どもをダメにするマイナスの努力としか言いようのないことが多いんじゃないでしょうか? これは悲劇とか喜劇とか言う次元を越えています。家庭の危機、日本の危機そのものです。 これらの原因は、大人が目先のことしか考えられなくなったからです。ちょっと先のことまで眺めれば、どれが本道か、枝道かは、察しがつくはずなのに、今、今の快適さのみ求めるようになったからです。 また、大人が自分の頭で考えることを学んでこなかったからでもあります。さらには、覚悟の無さ、度胸・勇気の無さにも原因があります。これは、大人が試練らしき試練を乗り越えた経験がないからとも言えるでしょう。 すべてをまとめると、大人自身が、自分の光を放って生きていないことに起因します。本当の主体性をもつ訓練をされてこなかったのですから、仕方ないと言えば仕方ないのですが。 自分の無限に価値に目覚めた意識を、大人にしろ、子どもにしろ、一人でも多く育成することこそ教育のバトルの隠れた最前線ではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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