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夜回り先生こと水谷先生と、ヤンキー先生こと義家先生は、最近とくに注目されている先生ですね。
浜之郷小学校の校長先生と先生方の取り組みも、話題になっています。 全国には、名前を知られないけれど、すばらしい先生がいっぱいいるんだろうなあ、ということを想像させられます。 ところが、そんな感動を与えてくれる先生をも、批判の対象にしようと思えば、結構、サンドバッグのように、叩けるんですね。何ということでしょう。 夜回り先生について言えば、 1.夜回りするのが教師の仕事ではない 2.授業を充実して、子どもを夜の世界に追いやらないことこそ教師の努めである。 3.本の出版やマスコミで儲けている。 確かに、論理的には、正しい部分もあります。普通の教師がすべてあんなことやってられません。学校の維持さえ、困難になります。 しかし、世が求めている教師、子どもが求めている先生は、ポイントが違うんですね。突き詰めれば、子どもをいかに大切に思うか、に尽きるのだと思います。好きで好きで仕様がない。寝ても覚めても気になる。この気持ちなのです。 それがあるからこそ、置かれた立場によって、行動は違うけれども、突出したアクションを起こさざるを得ないんだと思います。 自然に子どもの目線に降り、寄り添う行動をせざるを得ないんだと思います。 授業技術は家屋です。骨組みです。これがなければ、立っていられません。もっともっと良い建築が作れるはずです。みんなで研究していきましょう。 しかし! 子どもを愛する気持ち、抱きしめる心は、その建物で生きる人間を活かす生命そのものです。 そして、これを最も言いたいのですが、この気持ちは、一教師に任せておく問題では全然なく、人間としてこの世に生を受けた者の使命であり、また、神様からの最大のプレゼントでもあるはずです。 たとえ、私たちがどんな立場にあろうと、相手を思いやる心、これがすべてに命を吹き込むのです。とくに、弱い立場の子どもには、誰もが暖かい眼差しを向けるのが、生きている証みたいなものです。 社会制度がどうの、教育改革がどうの、という前の前に、今、生きている人間なら、目の前の子に、声をかけてしまうはずです。それがどうしてできないのか。 大人も、自分が声をかけてもらえないで育ったからではないでしょうか? 大人の癒しが必要です。しかし、これを言っていては堂々巡りです。自分の心にポッカリ穴が開いているからこそ、子どもたちに、手をさしのべることによって、埋め合わされていくことを信じて行動しましょう。 まず、自分の子どもの心に、より深く深く入って共感するように努めてみましょう。できるだけ、同じ世界に入って、その中でリードするようにしてみましょう。どうか、相対的な愛ではなく、絶対的な、完全な無条件の愛を目指して、思いっきり愛してあげましょう。 それができてこそ、他人の子も愛せるはずです。 私は今、傲慢にも、偉そうなことを書いていますが、批判を恐れずにバカになって全力を尽くす姿こそ、子ども達に見せてあげたいと思うのです。 水谷先生の夜回り日記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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