カテゴリ:理想の学校に向かって
昨日の一学期の修了式 当然のごとく、後ろの方では、 規律に従わない子たち。
担任の先生たちの、懸命な指導をよそに、 私は、側面から、気楽にながめてばかり。 何て、いい加減な人間なんだろう。
でも、おかげで、冷静にいろいろ考えることができます。 彼らは、何を訴えたいんだ。 なぜ、こうなったんだ。 彼らが自然と溶け込める学校のスタイルとは何なんだ。 そもそも学校とは何なんだ。
頭では、いろいろ結論めいたことも思い浮かぶのですが、 ふと、現実の彼らの、非常識さ。 そして、礼儀の無さをみると、 怒りがこみ上げてきます。
中には、明らかに、本人が持って生まれた 障害のせいで、道をはずれてしまった子もいることが わかります。 でも、やっぱり、面と向かって、人を傷つける(心理的)行為を見ると、 私は、思いっきり殴るか、 または、精神的にパンチを入れたくなります。
少なくとも、私が不快なことを伝えずにはいられません。 で、実際、彼の真似をしてみました。鏡のように。 そしたら、彼は、すぐに切れて、出て行きました。 アチャー。
私のジェスチャーは、他の先生は見ていなかったようで、 なぜ、彼が出ていったのか、なぞで終わったのですが、 ああすれば、こうなるくらい、わかっていように、 俺も未熟だなあ、と思った次第。
でも、間もなく、彼は返ってきました。とさ。 ま、今後、人間関係をしっかりと築きたいと思っています。
それにしても、です。 原理原則に戻って考えれば、 日本の学校の集団主義が 何の反省もなく、現代まで使われていることに 問題があるのは、明白です。
エジソンは、不登校でしたし、 アインシュタインも、学校嫌いだったのは、有名です。
アインシュタインは、軍隊の行進を見て、 多くの人が、機械のように感情を殺して動く姿に 恐怖を感じる感性の持ち主でした。
学校教育になじまないのは、当然です。 そして、学校側も、アインシュタインを 「のろま」とか「退屈な子」 「ろくなものにならない」とレッテルを貼っていたわけです。
アインシュタインのような天才だから、 エスケープが許されるのでしょうか? そんなはずはありません。
一般の子でも、学校に行かないからこそ、 大成する子がいっぱいいるはずです。
IT産業はじめ、世のシステムは 目まぐるしく変わっています。 その中で、教育システムだけが、 何と変化がなく、また、スピードが遅いことでしょう。 教職員の善意と努力を疑うものではありません。 しかし、その努力のベクトルの向きがズレているのです。 文科省の責任が一番ですけどね。
教育システムが、時代から、遥か後方に置き去りにされているのは、 明明白白ではないですか。 そして、試行錯誤が少なすぎます。 式典のスタイルも十年一日どころか、30年一日のようです。 もしかして、百年一日なのかも。
異常な中にいると、正常な感覚が失われます。 何を基礎にするのか、の原理原則をしっかり持たないと。
私は、 「生きているだけで、素晴らしい!」 ことを、繰り返し繰り返し伝えることだと思います。 そして、すべてのクラス、すべての生徒を「特別支援教育 」と することだと思います。
そして、同一年代だけの教育は、あまりにも不自然だと思うのです。 自然の掟に反しています。 ごちゃまぜに、するべきだと思うんだなあ。
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