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駆け落ち同然に結婚していた古関裕而さんは、妻の金子さんの音楽学校の近くに住んでいました。
金子さんの活躍で当時コロンビアレコードと契約していまして、月給が200円でした。 しかし、ヒット曲が出ません。そもそもレコード化してもらえません。 ついに月給が100円に値下げされます。 ここでまたまた、金子さんの交渉により、ほそぼそ続くんですが、財政的にピンチです。 そんなときにやはり作曲料にお金を使えない早稲田応援部は、古関裕而さんに応援歌の作曲を依頼したのです。 何とか敵の慶應の応援歌「若き血」に対抗できる応援歌を、と。 当時の早慶の戦況はと言うと、昭和二年、三年と慶応が全勝。 4年の3勝3敗をはさんで、5年も慶応が春秋4連勝という一方的な記録を打ち立てています。 この頃といえば、昭和2年に発表された慶應義塾応援歌「若き血」が一世を風靡していた頃で。 それがこの慶応黄金時代をさかんに煽っていたのです。 慶応野球部のパワーを何倍にもアップさせたこの「若き血」の凄さに、早稲田はただ圧倒されるばかり。 早慶戦の勝敗が大学内の雰囲気を大きく左右していたこの時期だけに、非常に重苦しい空気がキャンパスを支配していたのでした。 このどうにも沈滞した学内を一気に蘇らせるような画期的な応援歌が、早稲田にはどうしても必要であったのです。 応援部が学内募集した歌詞の中から、西條八十教授が一字の修正も加えずに選出したのは、当時高等師範部3年の住治男氏の「紺碧の空」でした。 しかし、作曲者がなかなか決まらない。 何しろ、あの強烈な「若き血」を凌駕するものでなくてはならないのです。 徹底討議の末、日本コロンビア専属の古関裕而氏に白羽の矢がたてられたのでした。 弱冠21歳、無名の新進作曲家古関裕而との出会いだったのです。 来たるべき決戦に向けて、古関さん直々の指導の下、応援部の連日の特訓が繰り返されます。 時代はさかのぼりますが、そもそも「若き血」も、早稲田の「都の西北」を粉砕すべく、しばらく早稲田の後塵を拝していた慶應の応援指導部の依頼でアメリカ帰りの新進作曲家 堀内敬三が書いたものです。 当時慶応には名曲「若き血」があり、その歌には特徴があったのです。 「都の西北」は、低音から高音に進むのですが、逆に「若き血」は高音から低音に進む。すなわちオタマジャクシは真逆なのです。 そして決戦早慶戦の。早稲田は野球で慶応に勝ったのです。5連敗を免れたのです。 その後「紺碧の空」は有名になり、第六応援歌から第一応援歌に昇格したという。 早稲田応援団は神宮球場で点数が入るたびに起立し肩を組んでこの応援歌を歌います。 同窓会では校歌と「紺碧の空」は必ず大声で歌います。 この稿のおまけに不謹慎ながら「若き血」の替え歌を載せる。 「馬鹿き血」 馬鹿き血に飢えるもの 狂気みてるやつら 銀座の女給にうつつを抜かし 共に歩むその姿 見るもあさまし 見よ 低能の集うところ ワイセツの意気高らかに さえぎるもなのきを 低能 低能 三田の色摩 低能 「完璧のバカ」も 完璧の馬鹿 アホの日大 こんなアホでも大学生かよ ふざけんじゃねえよ そのアホ面に 思わず笑いが込み上げてくるぜ 日大 日大 馬鹿馬鹿 日大 現在はわからないが、私が入学した頃、新入生はこの替え歌を飲み会ですぐに覚えた。 勘違いしないでほしいのだが、それだけ慶応の応援歌「若き血」は覚えやすい名曲であり、早稲田に古関裕而作曲の「紺碧の空」がなければ、応援歌では今でも慶応の風下に存在しなければいけない危惧があったのである。 全国の早稲田関係者はすべからく福島県福島市出身の古関裕而に感謝しなければいけないというのが私の主張と結論である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.26 21:31:20
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