全て
| カテゴリ未分類
| 育児問題
| 教育問題
| 子どもの問題
| 育児エッセー
| 人生論
| 時事問題
| 日々の随筆
| 家族のこと
| 自分(はやし浩司)史
| 友人より
| BW教室のこと
| 生きザマの問題
| 心の問題
| 育児のコツ
| 親子の問題
| 宗教問題(心の問題)
| 幼児・子どもの心理
| 老人問題
| 【保存原稿・SS】
| 旅行記
| ニュース
| 子どもの世界
| 私が見た映画
| ●宗教
| ●日本について
| 社会時評
| 夫婦の問題
| ●経済について(日本+国際)
| 英語のことわざ
| ★BW方式
| 小説
| BW教室
カテゴリ:育児問題
【M先生への手紙】
+++++++++++++++++++ M先生から、メールが届いた。 その返事を書いた。 +++++++++++++++++++ 拝復 で、思考力について、子どもの思考力は、世代連鎖(世代伝播ともいう)します。何も虐待だけが、世代連鎖するわけではないのです。親、とくに母親が、日常的に思考能力(思考習慣)があれば、それがそのまま子どもに伝わります。ですから、とくに0歳~2歳児までの、親の育児姿勢が、子どもに大きな影響を与えます。 最近の研究では、人間にも、鳥類(卵からかえってすぐ2足歩行する鳥類)のようなインプリティングがあることがわかってきました。0歳から数か月という期間をかけて、刷り込まれるのだそうです。 この期間を、「密着期」と呼んでいる発達心理学者もいます。 こうした現象は、たとえば、つぎのような事実からも証明されます。 たとえば4、5歳児に、「山を描いてごらん」「こんどは川を書いてごらん」「つぎに遠くに家が見えます。家を描いてごらん」と順に指示して、絵を描かせます。(ほかに、「道があります。道を描いてね」「木が2本立っています。木を2本描いてね」……と、指示していきます。つぎに何を描くかを教えないで、描かせます。子どもによっては、「どこに描こうか」「どうしたらいいか」などと迷ったりしますが、助けてはいけません。) 論理的思考能力の高い子どもは、無意識のうちにも、山の下に川を描き、家は小さく描きます。 で、べつの場所で、まったく同じ問題を母親にやってもらいます。すると、母子間の密着性の強い母子ほど、その両者は、ほとんど、同じ絵を描きます。つまりこうした無意識の論理性は、母親から子どもへと伝えられるわけです。 私の経験でも、20~30組に1組の母子は、不思議なことに、まったく同じ絵を描くことがわかっています。(とくに山の形などは、そうです。) つまり子どもの論理性は、母親からの影響が、きわめて強いということです。子どもからの働きかけに対して、そのような育児姿勢を見せるかが、その子どもの論理性の発育に大きな影響を与えるということです。 たとえば子どもが何かを質問したとき、あるいは質問だけにかぎらないことですが、何かの問題にぶつかったとき、母親が、(もちろん父親も)、その瞬間に見せる、思考習慣が、子どもの論理性の発育に大きな影響を与えるということです。 で、私が想像するところ、先生の論理性は、実は、小学校のころの教育によるものではなく(先生は、そう書いておられますが)、先生の父親、母親からの影響というか、それから受けついだ基盤があったからだと考えられます。 もし先生が言われるようなら、その小学校の生徒は、すべて、M先生になっていたはずです。 さらにアメリカでは、子どもに問いかけながら、会話をしますが、それと論理性は、直接的には結びつかないのではないかと思います。この問題には、日本人独得の子ども観、育児観の問題がからんでいます。 日本では、旧来より、親に甘える子ども(依存性の強い子ども)イコール、かわいい子イコール、よい子と考える傾向があります。 さらに昔から、「女、子ども」という言い方に代表されるように、女性や子どもは、人間ではない……という考え方もあります。さらにまた言えば、キリスト教国では、子どもは神の授かりモノという考え方をしますが、日本では、家のモノ、親のモノというように、私物化する傾向が強いです。 そのためその家に障害をもった子どもが生まれたりすると、欧米では、みんなが助け合って育てるという傾向が強いですが、日本では、「家の恥」として隠す傾向が、今でも残っています。(彼らの教会を中心とする、互助精神には、いつも驚かされるものがあります。) この問題は、そういう問題にからんでくるということです。つまり子どもの人権を尊重するということと、子どもの論理性とは、直接的には結びつかないということです。 で、問題は、母親の育児姿勢です。 一般的には、父親と母親は、同等に考えられていますが、これはまちがいです。(最近は、出産時に父親を立ち会わせるラマーズ法などが一般化してきていて、母性愛、父性愛という分け方をしないようですが)、実際には母親が子どもに与える影響は絶対的なものです。 父親は、母子の関係を是正する役目しかありません。母子関係を調整し、社会性を教えるのが、父親の役目というのが、一般的な通説です。(わかりやすく言えば、母子関係にクサビを入れ、狩のし方を教えるのが、父親の役目ということになります。それを是正しないままにしておくと、子どもは、総じて、マザコン化します。) その一例として、母子分離不安はありますが、父子分離不安というのは、ほとんど聞いたことがありません。(たまにはありますが、例外的です。)それは生後直後から、子どもは、母親から、乳を受ける、つまり母親が命の源泉だからにほかなりません。 父親がいなくても、子どもは育ちますが、母親がいなければ、子どもは育ちません。このちがいを乗り越えてまで、父親は母親の代用をするわけにはいかないのです。 さて、では、こう書くと、教育とは何かということになってしまいます。 こうした論理性というか、思考習慣は、かなり早い時期に、子どもの身につくものです。これが基盤になって、子どもは、その上で、ものを考える子どもになっていきます。たとえば、先生のお嬢様を考えてみましょう。 お嬢様は、先生を見ながら、幼児期を過ごしています。この時点で、すでに世代連鎖は始まっているのです。(だからお嬢様も、先生と、同じような道を歩んでおられます。) 「おや?」と思われるかもしれませんが、この時期を逸した子どもの例としては、1920年前後に見つかった、インドのオオカミ姉妹、フランスのビクトール(少年)などの例があります。 いわゆる野生児の問題です。 インドで見つかったオオカミ姉妹にしても、下の妹は、たしか推定年齢、1歳半でしたが、そのあと感情表現をとりもどすことはなかったそうです。フランスのビクトールにしても、推定年齢11歳でしたが、その後、手厚い教育によっても、言葉を覚えることはなかったそうです。(自分でつくった単語を、50個前後、使ったというような記録はありますが、フランス語は、最後まで話さなかったそうです。) こうして考えていくと、0歳~3歳児というのは、教育的な意味においても、きわめて特異、かつ重要な時期だということがわかっていただけると思います。 事実、私は4歳児からの指導にあたっていますが、この時期までに、その子どものもつ、方向性というのは、ほとんど決まっています。とくに重要なのは、満4・5歳から5・5歳の、いわゆる幼児期から、少年少女期への移行期です。 この時期は、「なぜ?」「どうして?」の質問がとくに多くなります。それはそれまでに形成される乳幼児の心理形成の修正期にもあたるからです。 ご存知かどうか知りませんが、乳幼児は、たとえば物活論(すべてのものは生きている)、人工論(すべてのものは、親がつくったもの)、実念論(心で念ずれば、ずべて実現すると考える)などという考え方をします(ピアジェ)。(ほかにもう一つ、乳幼児特有の自己中心性をあげる学者もいます。) よく赤ん坊が、風に揺れるカーテンを見て、生きていると思ったり(物活論)、「お月様を取って」と泣く(人工論)のはそのためです。死んだモルモットを手にして、「乾電池を入れ替えて」と言った子どもの例などが、報告されています。 結論を言えば、子どもの教育もさることながら、もっと重要なのは、母親自身ということになります。たとえば母親が迷信を信じ、占いやまじなばかりをしていたのでは、子どもに論理性は育たないということになりますね。 子どもというのは、何か疑問をぶつけたとき、あるいはそうでないときでも、親の考える姿勢を、そのまま身につけていくものです。姿勢だけではない。人間的な誠実さなど、無意識の意識までです。ユングが説いた、シャドウ論も、その延長線上にあるのではないでしょうか。その母親をさておいて、子どもにだけ、「考える人になれ」と言っても、無理な話です。 子「どうしてお月様はあるの」 母「神様が作ったからよ」 子「どうしてお日様は暖かいの」 母「神様がそうしたからよ」では、そもそも子どもに論理性など育つわけがないのです。 その子どもの思考力は、その子どもがどれだけ思考する習慣があるかで決まります。手段や方法ではありません。習慣です。 その習慣のないまま、メダカを育てても、球根を育てても、それでその子どもに思考力が育つとは、とても考えられません。それはあくまでも各論だからです。 で、日本人論ということになりますが、日本人というのは、代々、自ら考える力に乏しい民族ということになります。長くつづいた封建制度なども、その理由の一つかもしれません。あのマーク・トウェインがかつて言ったように、『皆と同じことをしていると感じたときは、自分が、変わるとき』という考え方が苦手なのですね。 反対に「長いものには巻かれろ」「出るクギは叩かれる」「みんなで渡ればこわくない」と。 こうした意識を代々、まさに世代連鎖として、大半の母親たちは、受けついでいますから、これを変えていくのは、容易なことではありません。さらに「情報の量」「知識の量」をもって、「思考」と誤解する、日本人独得の考え方もあります。いわゆる(もの知り)を(頭のいい子)と誤解しているわけです。 (これについては、先生があちこちで、すでに指摘されていますので、省略します。) つまりこの問題は、これから先、2代目、3代目を考えた、先の長い話になるということです。 そこでとりあえず、こうした問題を解決するためには、一つの方法としては、いわゆるエリート教育があります。全国一律の教育改革ではなく、(また日本人全体が、そうなるのを待つのではなく)、一部でもよいから、こうした「考える教育」を始めるということです。が、この教育にも、問題があります。現場では、いわゆる「飛び級」と言っているものですが、そこに受験戦争がからんでくると、わけがわからなくなってしまいます。(反対に、いくら考える教育でも、受験に不利とわかれば、親にソッポを向かれてしまいます。) 私も、数年に1、2人と、飛びぬけて、頭のよい子どもに出会います。「おっ、こいつはM先生級だな」と思うわけですが、悲しいかな、そういう子どもを育てる環境が、まだないですね。またさらに悲劇的なことに、そういう子どもを理解できる教師も少ないということです。 2年前、O君という少年を、8年間、教えました。小6のときには、中3生といっしょに教えていましたが、東京の麻布中などは、不合格でした。社会が苦手だったことと、国語が得意ではなかったからです。(現在は、HKラサール中学に在籍しています。) しかし小4のときには、方程式を使わないで、方程式の問題をスラスラと解いていました。が、学校では、問題児(?)。先生(女性)には、「生意気だ」とばかり、言われつづけたそうです。(たしかに生意気そうな様子を見せる子どもでしたが……。) こういう現実が、あるのですね。 先生がおっしゃった、GIFTED CHILDの問題もあります。それについては、私も、何度か、エッセーにしてきました。 またメールを書きます。 先生も、どうか、お体を大切に! はやし浩司 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月27日 07時38分48秒
|