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カテゴリ:日々の随筆
●相撲(すもう)
++++++++++++++ 4年前だが、相撲について書いた 原稿が、これ。 今、読みかえしてみると、 「ますます、そうだ」と 思える点が多い。 ++++++++++++++ 私は子どものころ、相撲が大好きだった。私だけではない。日本中が、大好きだった。テレビで相撲の中継が始まると、みな、テレビの前に集まった。相撲は、まさに日本の国技だった。 しかしそれから五〇年。この模様は、すっかり変わった。今では、子どもでも、相撲を見る子どもは、ほとんどいない。実のところ、私も、この三〇年、ほとんど見ていない。何がどう変わったのかは知らないが、興味をなくした。 そういう中、先日、横綱のT関が、引退した。そのニュースは、NHKの昼の定時ニュースのトップで、報じられた(〇三年一月)。私は時計を見ていたが、そのニュースだけで六分間! そしてそのあと、怒涛のように、T関のニュース、またニュース。NHKでも、その夜、T関の特集を組んで報道していた。 しかし、だ。たかが横綱が引退したくらいのことで、そんなに大騒ぎしなければならないのだろうか。常識で考えても、おかしい。「国技」ということはわかるが、それほどまでに国技にこだわらなければならない理由など、どこにもない。たとえば今は、冬場所だが、BS放送でも、午後一時前後から、夕方六時前後まで、実況中継している。毎日、五時間である! NHKと日本相撲協会の関係は、きわめて深い。どう深いかは、また別のところで書くとして、何ともうさん臭いものを感ずる。 で、その結果、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。ときどきマスコミにも漏れ、そのつど話題になるが、そういうのはまさに氷山の一角? 数年前だが、「金による八百長は、日常茶飯事」と暴露した、元力士もいた。 私は何も、相撲の実況中継に反対しているのではない。しかし「程度」というものがある。今、日本人の何%の人が、そういう実況中継を、午後一時から見たがっているのか、一度調査してみたらよい。報道の世界にも、需要と供給のバランスというものがあるのではないのか。相撲の実況中継に毎日五時間も取られる分だけ、ほかの報道がなおざりになる。少なくとも、まだ観客がほとんどいないうちから、中継を始めなければならない理由など、ない。ちなみに昨年(〇二年一一月場所)の観客動員数は、六割前後※(1)(読売新聞)。どの場所も空席ばかりが目立つ、さみしい状況となっている。 相撲は残念ながら、スポーツではない。興行である。興行である以上、金儲けが目的。金儲けが悪いと言っているのではない。金儲けなら金儲けでよいが、だったら、そこには一線を引くべきではないのか。こうまで国やNHKが、相撲協会を助けなければならない理由など、ない。また、助けてはいけない。反対にスポーツというなら、もう少しわかりやすくしてはどうか。少なくとも柔道とか、剣道のように、だ。今のやり方は、税金の使われ方という意味においても、公平さを欠いている。少なくとも、民主的ではない。 ……こう書くと、「相撲こそ、日本の伝統文化だ」と反論する人がいる。型、型、型でがんじがらめになった、あの相撲を、だ。ならば、私は反対に問題にしたい。なぜ、日本人は、こうまで「型」にこだわるのか、と。型が文化であると思い込んでいる人すら、いる。あるいは型を守ることが、伝統文化を守ることだと錯覚している人すら、いる。しかし型は文化ではない。文化というのは、観念をいう。考え方をいう。たとえばベネディクトは、『菊と刀』の中で、「キリスト教的欧米文化は、罪の文化である。日本の文化は、恥の文化である」と書いている。そういうのを文化という。 だからといって繰りかえすが、私は相撲を否定しているのではない。それを守りたいという人がいて、それを守るという人がいるなら、それはそれでよいことだ。私のような人間がとやかく言っても始まらない。相撲によく似ているが、私も学生時代、宝生(ほうしょう)クラブという、謡(うたい)のクラブに入っていた。京都の能舞台で、うなったこともある。それはそれで結構楽しかったし、よい思い出になっている。 ただ私が心配するのは、型にこだわるあまり、日本人は、どうしても生きザマがうしろ向きになりやすいということ。ときには型が、ブレーキになることもある。何かにつけて型を決めてから行動しようとする。そのため、その分、進歩が遅れてしまう。決しておおげさなことを言っているのではない。あの堺屋太一氏も、「(日本の社会)は、厳しい新規参入の制限、伝統的様式による規格化、独占の管理機構(日本相撲協会)という、市場原理の働かない(相撲型社会である)」(講談社刊「大変な時代」)と書いている。堺屋氏は相撲型社会を決して、ほめているのではない。「このままでは日本はダメになる」と警告しているのである。 教育の世界とて、例外ではない。たとえば文字の、トメ、ハネ、ハライがある。その上、書き順まである。こういうものに子どもたちは神経をすり減らしているから、文字を書いて考えたり、自分を表現したりすることが、どうしてもなおざりになってしまう。恐らく世界でも、もっとも思考能力のない民族はといえば、私たち日本人ではないのか。ロンドン大学の森嶋名誉教授も、そう書いている。「(日本の学生は)、自分で考え、判断する訓練が、もっとも欠如している※(2)」と。 相撲から文化論、さらには教育論にまで、話が飛躍してしまったが、NHKや日本相撲協会が、必死になって、観客需要をつくろうとしても、それは無理というもの。なぜなら、それを決めるのは、一部の指導者ではなく、私たち民衆だからである。いくら「相撲はおもしろぞ」と私たちを扇動しようとしても、私たちが「おもしろくない」と思えば、それまでのこと。その意識そのものが、まさに文化ということになる。 冒頭にも書いたように、私も子どものころは、相撲が大好きだった。そういう私でも、このところ相撲が低調ということについて、それほど悲しいという思いはない。理由のひとつとして、金まみれのスキャンダルがつづいたこと。今の今でも、ここにも書いたように、相撲業界の裏では、億単位の現金が乱舞しているという。そういう話を聞かされるたびに、「結局は私たちは、だれかの金儲けのために利用されただけ」という思いにかられる。つまり私のばあい、そういう思いが消えないかぎり、再び相撲が好きになることはないと思う。 (03-1-25) ※(1)……〇二年一一月場所、観客動員数(読売新聞調べ) 初日 ……6310人 二日目~六日目……5050人~5850人 (満席で8720人) ※(2)……ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と。 ● 伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。伝統を作り得るものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。(三木清「哲学ノート」) ++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年03月21日 11時55分27秒
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