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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年02月17日
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カテゴリ:社会時評
●最悪の暴君・織田信長

+++++++++++++++++++

日本の歴史の中で、だれがいちばん暴君だったかと
いえば、織田信長。
織田信長をおいて、ほかにない。

残虐な暴君はほかにもいたが、織田信長は、群を
抜いていた。

+++++++++++++++++++

織田信長がいかに残虐な暴君であったかを、箇条書きにしてみる。
(参考文献:山口智司著「暴君の素顔」・彩図社)

● 杉谷善住坊(比叡山の僧)…竹鋸引きの刑(竹のノコギリで、首を少しずつ切って殺す。)
● 朝倉義景、浅井長政、浅井久政の首切り…1573年、宴会の席で、これら3名の生首を金銀箔で飾り、みなに披露した。
● 小田信行(実弟)…家来に殺害させた上、信長の叔母の夫を、だまして殺害。刑は「逆さ磔(はりつけ)にして、竹鋸引き」。ついで叔母も殺害。

が、この程度で、驚いてはいけない。

● 比叡山僧侶を焼き討ち…1571年、比叡山を焼き討ちし、3000人もの宗徒が殺害される。さらに命乞いを懇願する老若男女を1600人を斬首。
● 長島一揆の虐殺…2万人を縄で数珠繋ぎにして集め、周囲に積んだ薪(まき)で火あぶりにして処刑。もちろん生きたまま。

もちろんこんなのは氷山の一角。
私が織田信長に最初に疑問をもったのは、私が高校生のときのことだった。
当時、夏休みになると、岐阜城下にある県立図書館へ、よく受験勉強にでかけた。
その帰り道、何かの記念館に立ち寄ると、そこに小さい文字で、こう書かれていた。
「信長は……毎日、約60人の人を、長良川の川原で処刑した」と。
岐阜市と織田信長の縁は深い。
現在の今も、毎年岐阜市では、「信長祭」なるものが、開催されている。

「60人」という数字は正確ではないかもしれない。
が、それを読んだとき、それまでの信長像が、ガラガラと音をたてて崩れ去るのを知った。
私たちは、学校で、織田信長は、日本の英雄であると学んだ。
しかし同じ織田信長が、その一方で、殺害につづく殺害を繰り返していた!
山口智司氏も、こう書いている。
「血で血を洗う戦国時代においても、織田信長の残虐性は、桁外れであった」(P28)と。

が、一方で、織田信長を理想のリーダーとして、称える人も少なくない。
たまたま2月16日、書店を訪れてみると、「名将の決断」シリーズとして、朝日新聞社
から、「朝日カルチャーシリーズ」なるものが、発売になっていた。
創刊号ということで、特別価格。
その筆頭に、織田信長が掲載されていた。

早速、購入。
大見出しは、「信長のミッション・インポッシブル」。
監修は、童門冬二氏となっている。

その本を開くと、巻頭言に、こうあった。
「決断が歴史を変える」と。

「……名称の決断は、自分で自分を助ける勇気を生む方々へのエールである」と。

ものは言いようだが、ここまでゆがんでくると、「?」マークを、織田信長によって
殺された人の分だけ、並べたい。

●「是非に及ばず」

織田信長は、明智光秀の謀反に際して、最期の言葉として「是非に及ばず(=まあ、
しかたないさ)」と言って死んでいったという。
もちろん(?)、「名将の決断」(朝日新聞社)のほうでは、織田信長を、「名将」の
1人として称える。

いわく、
『本能寺にたおれるまで、信長は、多くのことをやってのけた。

1、 門閥にとらわれない人材登用。
2、 鉄砲をはじめとする、新技術の採用。
3、 関所の撤廃による、流通の活性化。
4、 楽市、楽座による規制緩和、など。

それまでの中世社会の閉塞感を打破したのである。
すなわち、若き日の信長は、改革者であったといっていい』と。

これを書いた、火坂雅志氏は、そのあと織田信長の「闇」について書いている。
先に書いた、比叡山の焼き討ちや、伊勢長島一向一揆衆への弾圧など。
しかしそれについても、「焦り」が理由ではなかったと書いている。

「人生は50年。それを思いつめた結果」と。

ヘ~~~エ?

火坂氏は、焦った結果、織田信長は、「闇」の部分を作ったという論陣を張っている。
が、もしこんな自分勝手な、さらにはひとりよがりな論法がまかり通るなら、人は、
権力を傘に、何をしてもよいことになる。
独善と独断。
まさにその(かたまり)。
殺戮など、朝飯前!

そこで火坂氏は、「是非に及ばず」を、こう解釈する。

「おれはこの世で、やれることはやった。しょうがねぇ」と。

織田信長はそれでよいとしても、彼によって殺された人たちは、どうなのか?
その圧制のもとで苦しんだ民衆は、どうなのか?
時代が変わったというだけで、頭の狂ったような暴君ですら、「名将」になってしまう。
自分たちの先祖が、織田信長に虐げられた民衆であることを忘れて、織田信長の
目で、自分たちの歴史観を作り上げてしまう。
日本人のオメデタサ、ここに極まれり!

つづいて「日本の名将」(同書)は、こうつづく。

● 敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし!
● 自分のルールに従い、旧来の体制に挑んだ、孤独の天下人、と。

織田信長を美化してやまない。

どうして?
どうして、織田信長が、名将なのか?
日本人は、過去において、一度たりとも、あの封建時代を清算していない。
反省もしていない。
そればかりか、世界の歴史史上においても、例がない、あの暗黒かつ恐怖政治の
時代を、いまだに引きずっている。
そればかりか、あの時代を美化し、礼讃してやまない。

織田信長は、日本を改革した第一人者ではない。
民衆のために闘った人でもなければ、何かの正義のために闘った人でもない。
簡単に言えば、我利我欲に包まれた、ただの亡者。
先に並べた、信長の業績(?)にしても、結果として、つまり(後付け)として、
そうなっただけ。
当時の織田信長に、それほどまでの知的な計画性があったとは、とても思えない。
「鉄砲をはじめとする新技術の採用」という文言についても、それを読んで、
笑わない人はいないだろう。

織田信長は、その新技術とやらを使って、何をしたのか。
何のために鉄砲を手に入れたのか。
その鉄砲で、だれを殺したのか。
もし織田信長が名将ということになれば、鉄砲を知らず、殺された人たちは、バカ
だったということになる。

「名将の決断」のカバーページ(表紙1)には、「犠牲を厭わない」とある。
そう思うのはその人の勝手だが、それで犠牲になった人たちはどうなのか。
それをほんの少しだけ、頭の中で、考えてみたらよい。

だから「是非に及ばず」というのは、こう解釈したらよい。
「オレは、さんざん、悪いことをしてきた。これもしかたないわさ」と。

(追記)
織田信長を、礼讃する人がいるから、いまだに国盗り物語よろしく、おかしな政治家が
つぎつぎと現れる。
封建時代風の出世主義にとりつかれた人も多い。
歴史というものが何のためにあるかといえば、それは過去の人たちがした失敗から、
未来に生かす教訓を学びとるためである。
その心を忘れて、歴史は存在しない。

なお「名将の決断」の中にある、(成功者)というのは、いわゆるビジネスの世界での
成功者をいう。
「信長はリアリストだった」「信長・理念実現のスタート」「(信長は)日本一の合理主義者」
「トップの判断はベールの中」(「名将の決断」)と。
「敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし」というのが、それにつづく。

要するに、山口智司氏と火坂雅志氏の歴史観のちがいといえば、(織田信長を下から見た
歴史観)と、(織田信長を上から見た歴史観)のちがいということになる。
もとから日本人は、歴史を下から見るのが苦手。
またそういう視点で、歴史を見る人は少ない。
どこかの城に見学に入ったとたん、その城の城主として、その城を見てしまう。
しかしそれでは、「歴史」そのものが、死んでしまう。
未来に向かって、役に立たなくなってしまう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 織田信長 織田信長論 暴君)







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最終更新日  2009年02月17日 10時40分45秒
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