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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年02月24日
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カテゴリ:社会時評
●社会的制裁(?)

+++++++++++++++++++++

世俗をだます言葉が、これ。
「社会的制裁」。

先日もある事件の判決文を読んでいたら、
こんなのがあった。
ある公務員の汚職事件にからんだものだが、
こうだ。

「被告はすでに、公務員としての地位を失うなど、
社会的制裁を受けているので……、よって執行猶予
X年とする」と。

(執行猶予刑というのは、実質的に無罪と同じ。)

教師によるハレンチ事件の判決などでも、同じような
表現が用いられることが多い。
つまり(職を失っているので)、(刑罰を受けたことに
なる)と。

しかしこの論法はおかしい。
完全に、おかしい。
職を失うのは、当然の結末であって、それでもって、
社会的制裁を受けたということにはならない。

+++++++++++++++++++++

●目には目を!

政治家を例にあげて考えてみよう。
何かの事件で逮捕、投獄されたとする。
その時点で、議員辞職願いを出して、議員を辞職する。
その判決で、「すでに社会的制裁を……」は、おかしい。
もしその(おかしさ)がわからなければ、あなた自身の
こととして考えてみればよい。

たとえば私は、何も失うものがないと言えるほど、
地位や肩書きとは無縁の世界に生きている。
もしこの論法がまかりとおるなら、私は、日常的に
社会的制裁を受けていることになる。

こんな例もある。

数日前、ニュースサイトをのぞいていたら、こんな記事が目についた。
あのイランで、何と、盲目の刑が科せられた人がいるという。
その人は、ある女性の目に薬剤をかけて、その女性を盲目にしてしまった。
そこで裁判所の判決は、その人を盲目にする、と。
「目には目を……」という、イスラム教にのっとった刑罰とか(?)。

しかしこんな刑がまかりとおるとするなら、今、現在、盲目の人たちは、どうなのか、
ということになる。
そういう人たちは、日常的に刑罰を受けていることになってしまう。

私は権力や組織とは無縁の世界に生きている。
だからといって、社会的制裁を受けているわけではない。
同じように盲目の人たちも、刑罰(?)を受けているわけではない。

もっとひどいのに、こんな話がある。

あるテレビタレントが、何かの事件を起こした。
(こうした事件はよく起きるので、どういう事件かを特定する必要はない。)
そのタレントについて、マスコミ(=新聞やテレビ)は、こう言ったりする。
「あのタレントは、すでにマスコミの世界から、追放されている」と。

となると、この私は、どうなのか?
私は、若いときから今に至るまで、マスコミの世界から追放された状態にある。
(ときどき、テレビや新聞に出たことはあるが、それで利益につながったとか、
そういうことはない。)

私だけではない。
この文章を読んでいる、あなただって、そうだ。
あなただって、マスコミから追放された状態にある。
何も、悪いことなどしていなくても、だ。

●社会的制裁

社会的制裁は、刑罰ではない。
またそれらしき結末になったからといって、判決の内容に影響を与えるものではない。
また影響を与えてはならない。

さらに念を押すなら、こういうことも言える。

政治家や公務員が、何かの事件を起こして職を失ったとする。
それについて、裁判官が、「すでに社会的制裁を……」と言ったとする。
たしかに社会的制裁にはちがいないが、もしそれを(制裁)とするなら、
今、現在、職を失い、その日の生活費にすら苦労している人たちは、
どうなのか、ということになる。
その人たちも、やはり日常的に制裁を受けていることになる。
しかしだれによって?
どうして?

……ということで、私は、あの「社会的制裁」という言葉を聞くたびに、
なんとも言われない不快感を覚える。
視点そのものが、「上」にあって、私たちを、「下」に見ている。
下の世界にいる者は、いわゆる価値のない大衆にすぎない、と。

だから裁判官に私は、こう言いたい。

名誉や地位、さらに仕事を失うのは、あくまでも結末であって、その結末を
先にもってきて、「すでに社会的制裁を……」とは、言ってほしくない。

私たちには、名誉も地位もない。
大半の人たちは、みな、そうだ。
マスコミにも相手にされていない。
だからといって、私は、制裁を受けているとは思わない。
それがわからなければ、もう一度、あのイランでの判決を思い出してみればよい。

刑罰によって、その人を盲目にするということは、それ自体が、盲目の人
たちへの冒涜(ぼうとく)以外の何ものでもない。
はっきり言えば、バカにしている。
一見、合理的に見えるが、合理性は、どこにもない。
「盲目になって苦しんでいる人のために、お前も同じ苦しみを味わえ」という
ことだろう。
が、しかしそれは同時に、今、現在、病気などによって盲目になった
人たちの苦しみを、もてあそぶことになる。

繰り返す。
こういうバカげた、(後付け理由)は、もうやめにしてほしい。

(補記)
さらにダメ押し。
2人の人が、同じハレンチ事件を起こしたとする。
1人は学校の教師、もう1人はフリーターである。

「すでに社会的制裁を……」という論法がまかりとおるとするなら、
教師には、執行猶予がつく。
それはわかる。
しかしフリーターには、もとから失う仕事すら、ない。
日常的に社会的制裁を受けた状態にある。
社会的制裁を受けようにも、受けようがない。
だとするなら、フリーターには、執行猶予はつかないことになる。
この不公平感こそが、そのままこの言葉の不合理性を表していることになる。

さらに言えば、繰り返しになるが、この論法がまかりとおるとするなら、
リストラなどで職を失った人は、どうなのかということになる。
それを「社会的制裁」というのは、あまりにも酷である。

わかったか、裁判官の諸君!
少しは人間社会を、「下」から見ろ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
社会的制裁 社会的制裁論 刑罰 刑罰論 判決)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司





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最終更新日  2009年02月24日 10時06分35秒
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