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別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2009年06月29日
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カテゴリ:育児エッセー
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(247)

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「その年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もいれば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたちに接するときもそうだ。毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほしい。さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。こわいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。

犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(248)

●宗教のもつ愚鈍性

 ある宗教を信仰している人は、それなりに穏やかな顔をしている。表情やしぐさまで違ってくる人がいる。さらに見るからにどっしりと、落ち着いている人もいる。思想というのはそういうもので、他人のそれであっても、「絶対正しい」と思われるものを脳に注入されると、脳というのはそれで満足してしまう。が、同時に、自ら思考することをやめてしまう。一度そうなると、まさに上意下達方式のもと、「上」から「下」へ一方的に思想が注入される。これがこわい。

 ……と言っても、私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。しかし宗教や信仰には、高邁な哲学と引き換えに、その人をして自ら考えさせるのをやめさせてしまうという麻薬性がある。それは否定できない。

中には、その宗教の批判を一切許さない宗教がある。(たいていの宗教はそうだが……。)疑っただけで、「地獄へ落ちる」とか、その宗教から離れただけで、「バチが当たる」と脅す宗教団体もある。が、それでも私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。それぞれの人は、それぞれの思いの中で、宗教や信仰に身を寄せる。この私とて、今は何とかがんばっているが、やがてそれができなくなったら、宗教や信仰に身を寄せるかもしれない。私が知っている哲学者や文学者の中には、死の直前になって入信した人が何人かいる。私がそういう人たちより強いという自信は、今のところ私にはまったくない。

 しかしこれだけは言える。仮に宗教や信仰をしても、自ら考えることはやめてはいけない。ある男性はこう言った。私が「少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか」と聞いたときのこと。「あの先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいない」と。こうした愚鈍性が見られたら、それはまさにその人の敗北でしかない。他人の意見は他人の意見。参考にはしても、自分のものにしてはいけない。

それはちょうど、借金ばかりで建てた家に住むようなものだ。借金ばかりで買った車に乗るようなものだ。家や車ならまだよいが、人生はそうであってはいけない。いわんや自分の「魂」まで売り渡してはいけない。たとえ不完全でも、人間は自らの足で立ちあがるからこそ、そこに生きる価値がある。医学も政治も社会も科学も、どれも不完全なものばかりだが、その不完全さを一つずつ克服していくから、人間なのである。生きるドラマもそこから生まれる。

 もっとも、愚鈍でもよい。その日その日を、平和で無事に過ごせれば、それでよいという人も少なくない。もしあなたがそうなら、私はこれ以上何も言うことはない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(249)

●親孝行論

 ある地方の、ある老人ホームの責任者から聞いた話。そのホームでは、(どこでもそうだそうだが)、老人たちはいつも、息子や娘の孝行話ばかりを自慢しあっているという。

孝行息子や孝行娘をもった老人は、それを自慢げに誇示し、そうでない老人は毎晩のように悔しがっているというのだ。そこで私が「どういう子どもを、孝行息子や孝行娘というのですか」と聞くと、こう話してくれた。「要するに親にいかに尽くすかで決まるんですなア」と。

つまり親への犠牲度、忠誠度、貢献度、献身度、服従度で決まるという。老人たちのさみしい気持ちはわからないわけではないが、それにしても、それ以上にさみしい話ではないか。私はその話を聞いたとき、まず最初に、「私はそうはなりたくない」と思った。

 この日本では親孝行が、美徳のひとつになっている。子育てや教育の中心に考えている人も少なくない。しかし親孝行するかしないかは、子どもの問題。子どもの勝手。少なくともそれは、親が求めるものではない。いわんや子どもにそれを強制したり、押しつけてはいけない。親子といえども、そこは人間関係。親孝行があるとするなら、それはそういう人間関係から、自然に発生するものでなければならない。親孝行をしないからといって、その子どもが否定されたり、またしたからといって、その子どもの価値をあげるようなことはしてはいけない。

人にはそれぞれの思いがある。複雑な家庭環境や、さらに複雑な過去を背負っている人はいくらでもいる。(親をだます子どもはいるが、世の中には子どもをだます親だっている。例外とはいえ、子どもを殺す親だっているのだ!)むしろ日本人で問題なのは、安易な孝行論をふりかざし、子どもに向かっては「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を子どもに押し売りしてしまうこと。

子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまうこと。結局は、親も子どもも、自立できない親、自立できない子どもになってしまう。それが日本人独特の親子関係といえばそれまでだが、しかしそれは決して世界の標準ではない。極東の、アジアの小さな島国でしか通用しない、親子関係といってもよい。

 ……と書くと、決まって「はやしの意見は、欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実は逆で、日本の若者で、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えているのは、20%もいない。アメリカも含めて、欧米の若者たちはどこも60%以上である(総理府調査)。

 日本は今、大きな過渡期にきている。形だけの親子、形だけの家族から、人間関係を基本に置いた親子、人間関係を基本に置いた家族への移行期ととらえてよい。それはもう欧米化というより、グローバル化といってもよい。日本人が好む孝行論も、そのグローバル化の中で、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(250)

●代償的過保護

 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが重なって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親の支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたいという意欲が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。

このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでいるケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わからないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。

ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もいるし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が3000万円かかったから、それを返すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。

もしそうなら、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先が代償的過保護でないかを、冷静に判断してみる。この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。





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最終更新日  2009年06月29日 06時54分40秒
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