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カテゴリ:家族のこと
●反乱
++++++++++++++++++++ 近く、実兄と実母の一周忌がある。 私の属する宗派では、盆供養というのはしない。 そのかわり、一周忌では、その法要を派手にする。 寺での供養が済んだあと、親類縁者、一堂に 集まって、飲み食いの席をもうける慣わしに なっている。 が、私はこう決めた。 (1) 実兄の一周忌はしない。 (2) 実母の一周忌は、寺で、私とワイフだけで すます。 それが私たちの結論。 X市に住む従姉のYさんが、「そうしたら」という アドバイスをくれた。 だから、そうする。 ++++++++++++++++++++ ●親 親にもいろいろある。 みながみな、森進一が歌う、『♪おふくろさん』に出てくるような親とはかぎらない。 中には、子どもを罵倒しながら、好き勝手なことをしている親もいる。 好き勝手なことをしながら、他人の前では、仏様のようなフリをする。 Aさん(65歳・女性)の母親もそうだ。 あまりにわがままに、Aさんは、いつもこう言っている。 「母に、殺意すら覚える」と。 晩年の母はともかくも、私の母も似たような親だった。 生涯にわたって、自分で職をもったことは、一度もない。 稼業は自転車屋だったが、ドライバーを握ったこともない。 家の上の掃除は母がしたが、その下の土間、仕事場の掃除、窓ガラス拭きなどは、 すべて私たち子どもの仕事だった。 ●他界 が、昨年、実兄が死に、実母が死んだ。 そして今年、一周忌がやってきた。 「どうするか?」。 悩んだ末の結論が、上に書いた、(1)と(2)ということになる。 親類と言っても、叔父、叔母方が、2人。 伯父、伯母方が、2人。 それだけ。 あとは従兄弟たちだが、今は、疎遠になってしまい、行き来はない。 「今さらどうして親戚づきあい……?」というのが、私の本音。 それに私はもう自分の哲学を曲げてまで、法事はしたくない。 必要なことは、すべてした。 実兄、実母の百か日の法要までは、きちんとした。 しかし、そこまで! ●幻惑 といっても、体の芯まで染み込んだ「幻惑(=苦悩)」を、心から抜き去るのは 容易なことではない。 本能に近い部分にまで染み込んでいる。 私たちは生まれるとすぐ、もろもろの「刷り込み」を経験する。 親子関係もそうだが、ほかに家族関係、親戚関係など。 こうした関係が、「家族自我群(=呪縛感)」となって、私たちの心をがんじがらめに している。 だから苦しむ。 もがく。 ずるい親になると、そうした「家族自我群」を使って、逆に、子どもを束縛する。 先に書いたAさんの母親も、そうだ。 自分は昼間は寝ているから、よい。 が、夜中になると、大声で、こう叫ぶという。 「ああ、腹減った!」 「何か食わせてくれないと、死んでしまう!」 「長生きして、損した!」と。 Aさんは一晩中、自分の耳を押さえて眠るという。 が、それもこのところ限界にきた。 慢性的な不眠がつづき、精神状態もおかしくなってきた。 うつ病薬、精神安定剤の量も、ふえてきた。 だからAさんは、こう言う。 「死ぬまではめんどうをみるが、死んでも、葬式はしない」と。 ●決別 もし上に書いたような(1)と(2)を実行すれば、私のことを悪く言う親類は、 何人か出てくるだろう。 悪口を言うために、てぐすねをひいて、待っている。 (……というのは、私の思い過ごしかもしれない。 が、いいふうには、言わないだろう。) が、私は、こう思う。 「もう、いいかげんにしてほしい!」と。 あるいは「いつまで私を苦しめたら、気が済むのだ!」と。 もちろんお金の問題ではない。 法事の費用のことを言っているのではない。 これは私の主義、主張の問題。 私はもうこれ以上、自分の主義、主張を捻じ曲げたくない。 安易な妥協で、もうこれ以上、自分の人生を汚したくない。 ゆいいつの方法は、私の主義、主張を、関係者に理解してもらうことだが、 それをするのも疲れた。 また、それを理解できるような人たちなら、まだよい。 しかしこのところ、ますますたがいの間の(距離)を感ずるようになった。 そうでなくても、みな、加齢とともに、脳みその活動が鈍くなってきている。 説明しようにも、説明のしようがない。 ●私は私 私は、「私は私」という生き方を貫いてきた。 が、そこに親類、縁者が加わると、とたんにそれができなくなる。 夏目漱石も、小説『こころ』の中で、似たようなことを書いている。 どんな高邁な哲学や思想をもっている人でも、一度、家族自我群の中に巻き込まれると、 私が私でなくなってしまう。 だから「勇気」ということになる。 私はもう、人が何と言おうと気にしない。 言いたい人には言わせておけばよい。 私自身の人生も、それほど長くない。 だから「勇気」ということになる。 その勇気がないと、「家族自我群」による「幻惑」から、自分を解放させることは できない。 が、そう割り切ったとたん、気分がスーッと軽くなった。 楽になった。 もちろんだからといって、実兄や実母の死を軽くみているわけではない。 新調した仏壇は、私の家の中でも、いちばんよい場所に安置してある。 折につけ、手を合わせている。 が、それ以上に、どうして法事が必要なのか。 もしそれで「成仏」なるものができないとするなら、私は自分が死んだら、 あの世で真っ先に抗議活動を始める。 そんなバカげた仏教が、どこにある! ……ということで、私の気分を軽くしてくれた従姉には、さっそく礼の品々を、 昨日贈っておいた。 Yさん、ありがとう! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年07月01日 07時45分37秒
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