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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年07月01日
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カテゴリ:家族のこと
●反乱

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近く、実兄と実母の一周忌がある。
私の属する宗派では、盆供養というのはしない。
そのかわり、一周忌では、その法要を派手にする。

寺での供養が済んだあと、親類縁者、一堂に
集まって、飲み食いの席をもうける慣わしに
なっている。

が、私はこう決めた。

(1) 実兄の一周忌はしない。
(2) 実母の一周忌は、寺で、私とワイフだけで
すます。

それが私たちの結論。
X市に住む従姉のYさんが、「そうしたら」という
アドバイスをくれた。
だから、そうする。

++++++++++++++++++++

●親

 親にもいろいろある。
みながみな、森進一が歌う、『♪おふくろさん』に出てくるような親とはかぎらない。
中には、子どもを罵倒しながら、好き勝手なことをしている親もいる。
好き勝手なことをしながら、他人の前では、仏様のようなフリをする。
Aさん(65歳・女性)の母親もそうだ。
あまりにわがままに、Aさんは、いつもこう言っている。
「母に、殺意すら覚える」と。

 晩年の母はともかくも、私の母も似たような親だった。
生涯にわたって、自分で職をもったことは、一度もない。
稼業は自転車屋だったが、ドライバーを握ったこともない。
家の上の掃除は母がしたが、その下の土間、仕事場の掃除、窓ガラス拭きなどは、
すべて私たち子どもの仕事だった。

●他界

 が、昨年、実兄が死に、実母が死んだ。
そして今年、一周忌がやってきた。
「どうするか?」。
悩んだ末の結論が、上に書いた、(1)と(2)ということになる。

 親類と言っても、叔父、叔母方が、2人。
伯父、伯母方が、2人。
それだけ。
あとは従兄弟たちだが、今は、疎遠になってしまい、行き来はない。
「今さらどうして親戚づきあい……?」というのが、私の本音。
それに私はもう自分の哲学を曲げてまで、法事はしたくない。
必要なことは、すべてした。
実兄、実母の百か日の法要までは、きちんとした。
しかし、そこまで!

●幻惑

 といっても、体の芯まで染み込んだ「幻惑(=苦悩)」を、心から抜き去るのは
容易なことではない。
本能に近い部分にまで染み込んでいる。

私たちは生まれるとすぐ、もろもろの「刷り込み」を経験する。
親子関係もそうだが、ほかに家族関係、親戚関係など。
こうした関係が、「家族自我群(=呪縛感)」となって、私たちの心をがんじがらめに
している。
だから苦しむ。
もがく。

 ずるい親になると、そうした「家族自我群」を使って、逆に、子どもを束縛する。
先に書いたAさんの母親も、そうだ。
自分は昼間は寝ているから、よい。
が、夜中になると、大声で、こう叫ぶという。

「ああ、腹減った!」
「何か食わせてくれないと、死んでしまう!」
「長生きして、損した!」と。

 Aさんは一晩中、自分の耳を押さえて眠るという。
が、それもこのところ限界にきた。
慢性的な不眠がつづき、精神状態もおかしくなってきた。
うつ病薬、精神安定剤の量も、ふえてきた。
だからAさんは、こう言う。
「死ぬまではめんどうをみるが、死んでも、葬式はしない」と。

●決別

 もし上に書いたような(1)と(2)を実行すれば、私のことを悪く言う親類は、
何人か出てくるだろう。
悪口を言うために、てぐすねをひいて、待っている。
(……というのは、私の思い過ごしかもしれない。
が、いいふうには、言わないだろう。)

 が、私は、こう思う。
「もう、いいかげんにしてほしい!」と。
あるいは「いつまで私を苦しめたら、気が済むのだ!」と。

 もちろんお金の問題ではない。
法事の費用のことを言っているのではない。
これは私の主義、主張の問題。 

 私はもうこれ以上、自分の主義、主張を捻じ曲げたくない。
安易な妥協で、もうこれ以上、自分の人生を汚したくない。
ゆいいつの方法は、私の主義、主張を、関係者に理解してもらうことだが、
それをするのも疲れた。
また、それを理解できるような人たちなら、まだよい。
しかしこのところ、ますますたがいの間の(距離)を感ずるようになった。
そうでなくても、みな、加齢とともに、脳みその活動が鈍くなってきている。
説明しようにも、説明のしようがない。

●私は私

 私は、「私は私」という生き方を貫いてきた。
が、そこに親類、縁者が加わると、とたんにそれができなくなる。
夏目漱石も、小説『こころ』の中で、似たようなことを書いている。
どんな高邁な哲学や思想をもっている人でも、一度、家族自我群の中に巻き込まれると、
私が私でなくなってしまう。

 だから「勇気」ということになる。
私はもう、人が何と言おうと気にしない。
言いたい人には言わせておけばよい。
私自身の人生も、それほど長くない。
だから「勇気」ということになる。
その勇気がないと、「家族自我群」による「幻惑」から、自分を解放させることは
できない。

 が、そう割り切ったとたん、気分がスーッと軽くなった。
楽になった。
もちろんだからといって、実兄や実母の死を軽くみているわけではない。
新調した仏壇は、私の家の中でも、いちばんよい場所に安置してある。
折につけ、手を合わせている。
が、それ以上に、どうして法事が必要なのか。
もしそれで「成仏」なるものができないとするなら、私は自分が死んだら、
あの世で真っ先に抗議活動を始める。
そんなバカげた仏教が、どこにある!

 ……ということで、私の気分を軽くしてくれた従姉には、さっそく礼の品々を、
昨日贈っておいた。

 Yさん、ありがとう!





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最終更新日  2009年07月01日 07時45分37秒
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