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楽天・日記 by はやし浩司

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2011年05月15日
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【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●世にも不思議な留学記

 2004年の1月4日号から、『世にも不思議な留学記』を、マガジンで、1~35回に分けて、連載します。どうか、ご期待ください。

その留学記の冒頭は、こんな文章で始まります。

++++++++++++++++++++++

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オ-ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生活を送ることができた。

世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。

私の寝泊りした、インターナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモ-リシャスの皇太子。ナイジェリアの王族の息子に、マレ-シアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インドネシア語か、それとも家族の文字か」と。「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった……(つづく)。

+++++++++++++++++++++

 私にとっては、この原稿は、特別な思いのあるものです。今でも、この原稿を読みなおすたびに、胸に、じんと熱いものが、よみがえってきます。

 あの時代は、私の青春時代であると同時に、人生のすべてでした。今の私などは、その残り火の中で、ようやく生きているといった感じです。

 決して、おおげさなことを言っているのではありません。ただ、そのときは、わかりませんでした。あの時代が、かくも、その後の私のすべてを支配するようになるとは!

 夢中で通りすぎた、あの時代。それを書いたのが、『世にも不思議な留学記』です。私は、この原稿を書くために、今まで、無数の原稿を書いてきたように思います。私のすべては、この原稿に始まり、この原稿に終わると言っても、過言ではありません。まさにこの原稿は、私の「命」です。

 ただこの原稿を書き始めたのが、1971年のはじめ。そのときは、何度書いても、うまくまとめることができませんでした。

 そのかわり、当時私は、ただひたすら、日記を書きつづけました。その日記をもとに、それからほぼ25年後、私が45歳をすぎたころですが、今回紹介する、『世にも不思議な留学記』をまとめました。中日新聞のほうで、連載記事を頼まれたのが、きっかけでした。

 さらにその後、金沢学生新聞のほうでも、連載してもらえることになり、2003年の現在も、連載中です。

 それを今回、マガジンを購読してくださっている方に、これら中日新聞、金沢学生新聞などに発表した原稿を、少し手直しをし、お届けすることにしました。未発表の原稿も含めて、全部で、計35作になります。

 なおHTML版のほうでは、当時の写真や資料などを添え、よりみなさんに楽しんでいただけるようにしました。これから先、約2か月半にわたる、長い連載になりますが、どうか、お楽しみください。
(031222)

【連載に先だって……】

 ここに二枚のコピーが、あります。一枚は、「留学試験合格の通知書」。もう一枚は、北陸地方の地方紙である、北国新聞の記事です。

 この通知書にある、「正田英三郎」というのが、現在の皇后陛下の父君です。またその合格通知を受けて、北国新聞社が、私を取材してくれました。それが、この記事です。
(HTML版のほうで、収録。)

 こうした資料を公開するのは、今回が、はじめてです。今まで、こういうことを書くこと自体に、抵抗を感じました。また、率直に言って、どこか、自分が情けなくて、公表できませんでした。

 いつか、それなりの人物になったら……と思っていましたが、そういうときは、とうとうやってきませんでした。これからも、やってこないでしょう。正田氏にしても、数年前、なくなってしまいました。

 何とも不完全燃焼のまま、青年期を終え、壮年期を終えてしまった感じです。だからこそ、この『世しにも不思議な留学記』が、今また、心の中で燃えるのかもしれません。

 そんな熱い思いを、この『世にも不思議な留学記』の中に、感じていただければ、こんなうれしいことはありません。どうか、ご一読ください。心から、お願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の犠牲心 

 あなたは今、子育てをしながら、心のどこかで、自分が、犠牲になっているのを感じていないだろうか。「子どものため」を口にしながら、その一方で、「産んでやった」「育ててやった」と、思っていないだろうか。

 実のところ、私とて、三人の息子たちを育てながら、そんな気持が、まったくなかったわけではない。楽しいときばかりではなかったし、苦しいときや、つらいときもあった。子育てを重荷に感じたことも多い。

 だから今。ほぼ三人の子育てを終えつつある今、子どもたちの巣立ちにほっとする一方で、心のどこかで、ある種の虚(むな)しさを感ずることもある。気がついてみると、息子たちは、もう、そこにはいない。残されたのは、私とワイフの二人だけ、と。

 ただ幸いなことに、私の今の生活は、子育てをしていたときと、ほとんど変わりがないということ。犠牲になった部分がなかったわけではないが、しかし今も、相変わらず、そのままの生活をつづけている。

 しかし今、もし、その犠牲になった部分だけ、今の私がなかったら、今ごろ私は、どうなっていただろうかと考える。たとえば生活費のすべてを、子どもの学費に注ぎ、そのため多額の借金をかかえていたとしたら……。

 実際、そういう人は、少なくない。

 Gさん(母親)は、バブル経済の始まるころとはいえ、一人息子の教育費には、惜しみもなく、お金を使っていた。三〇万円もする、英語教材を買い求めたり、夏休みや、冬休みには、東京の特訓教室へ連れていったりするなど。決して、裕福な家庭ではなかった。

 その結果、Gさんのその一人息子は、それなりに有名な大学に進学はしたものの、今でもGさんは、公営の団地に住んでいる。が、もしGさんが、こうした教育費を、自分のために使っていたら、今ごろは、家の一軒くらいなら、買えたかもしれない。

 現在の、そのGさんと、一人息子の関係は、私は知らない。が、その関係がそれなりによければ、Gさんは、そうしたお金を使ったとしても、それに報われたことになる。反対に、そうでなければ、そうでない。

 いくら無条件の愛といっても、また、子育てに報酬は求めないとはいっても、いつも、そうと割り切ることはできない。それがここでいう「犠牲」ということになるが、そうした犠牲心が大きければ大きいほど、それは、あとあとまで、尾を引くことになる。

 たとえば今、自分を静かに振りかえってみたとき、「これでよかった」と思う部分は、たしかに大きい。しかし、「結局は、残されたのは、私たちだけ」と思う部分も、まったく、ないわけではない。ワイフは、「これからの人生は、私たちで楽しみましょう」とは言うが、そう、自分に言って聞かせなければならないというのも、どこか、さみしい。

 ただ私のばあいは、子育てをしながら、そのつど、自分なりに、楽しむことに心がけてきた。とくに息子たちに向って、「産んでやった」「育ててやった」、さらには「大学を出してやった」と言うのは、禁句にしてきた。理由がある。

 私は、子どものころから、父親や母親のみならず、叔父や叔母たちにも、そう言われつづけてきた。そのとき、私自身が感じた重荷を、息子たちには、感じてほしくなかった。その反動もあって、私は、息子たちには、いつも、こう言ってきた。「親孝行なんて、くだらないことは、考えなくていい」と。「お前たちは、お前たちで、自分の人生を生きればよい」とも。しかしそれでも、何か割り切れないものが、残る(?)。

 とくに二男は、アメリカ人の女性と結婚し、アメリカに住んでいる。国籍も、そのうち、アメリカ人になる。孫も生まれたが、ほとんど、日本語を教えていない。奥さんも、日本語を勉強していない。

 こうした「表面的な形」には、耐えられるとしても、二男は、クリスチャンになり、うわべはともかくも、私やワイフの生き方や、哲学を、心の中では、否定し始めている。私が五六年間かけて身につけた生きザマなど、彼らが言うところの「神」の前では、一片の価値もない。心そのものが、私たちの届かない、はるか遠くに行ってしまった。

 全体としてみれば、「これでよかった」とは思うが、しかしそれが私の望んだ方向であったかどうかとなると、よくわからない。つまりその「わからない」部分こそが、私の犠牲心に根ざしているということになる。

 だから今、こういうことは言える。

 いくら子育てで苦労はしても、どこかで自分が犠牲になっているように感じたら、それは、本来の子育てではないということ。「産んでやった」「育ててやっている」と感じたら、それは、本来の子育てではないということ。

 そうではなく、本来、子育てというのは、親自身が、楽しんでするももの。また楽しむべきもの。そういう意味で、子育てというのは、子どものためにするものではなく、自分のためにするもの。

 私にしても、もし息子たちがいなかったら、こうもがんばらなかったと思う。またこうまで人生を、楽しむことはできなかったと思う。さらに、子育てをとおして、息子たちから、教えられたものも、多い。だからここに書いた「迷い」は、あくまでも、私の心の中の、一部にすぎない。決して、すべてではない。

 要するに、親は親として、自分を保ちながら、子育てをせよということか。今は、まだよくわからないし、この程度のことしか書けないが、おおむね、このエッセーの結論としては、それほど、まちがってはいないと思う。

 逃げるようで申しわけないが、この先のことは、もう少し、時間がたってみないとわからない。ここで何らかの結論を出すことは、危険なことのように思う。なぜなら私自身、まだ、その子育てから完全に解放されているわけではないからである。
(031223)

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最終更新日  2011年05月15日 12時11分22秒



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