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いつになったら、できるの!
己こそ、己のよるべ(失敗危険度★★★) ●自由とは、「己による」こと 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。 ●考えさせない過干渉ママ 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、 母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、 私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。 ●行動させない過保護ママ 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。 ●責任をとらせない溺愛ママ さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練にでかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こう言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではないかと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。 はやし浩司+++++++++++++Hiroshi Hayashi 口がうまい親ほど、要注意! あせる親は結論も早い(失敗危険度★★★) ●口がうまい親ほど……? あるおけいこ塾の講師が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親ほど、要注意。そういう親ほど、やめ方がきたない」と。たとえば「先生の教え方はすばらしい。うちの子がおとなになるまで、お世話になりますと言う親ほど、ある日突然、ハイ、さようならとやめていく」と。別の塾の教師も、同じようなことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけている」と。「どうしてですか?」と聞くと、「口のうまい親は、やめたとたん、今度は悪口をあちこちで言い始める」と。 私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、体中が震えると言う先生もいる。 ●教育は人間関係 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書けない。私の世界では、親はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができること。ものの売り買いとは違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから教育を商売と同じように考えることはできない。そこでいくつかのポイントがある。これは親側からみたポイントということになる。 ●先生とつきあうポイント (1)先生とつきあうときは如水淡交……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるということは、ない。 (2)過剰な期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。神様のように思っている人もいる。そしてそれに甘える形で、やりたい放題のことをする人がいる。しかし先生が聖職者と思うのはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。 (3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別れ際を美しくする。美しい別れ方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思ったとたん、信頼関係は半減する。 はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ! 先生の悪口は言わない(失敗危険度★★★) ●良好な人間関係が基本 教育もつきつめれば人間関係。それで決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に反応する。 ●先生も人間 一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そういうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。 ●学校の問題は、先生がいないところ 教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係である。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。 ●結局は子どもの損に あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなくなる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが……)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いからでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。 はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi 学ぶものは山に登るごとし 知識と学力(失敗危険度★★★) ●知識と学力は別 もの知りの人が、賢い人ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台では、そのタイヤの数は一二」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。その計算方法を自分で考えだしたとしたら、さらに頭のよい子ということになる。 ●知識教育が教育? ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。教育の体系そのものがそうなっている。たとえば学校でも、「わかったか」「覚えたか」「ではつぎ……」という教え方が基本になっている。アメリカやオーストラリアでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」という教え方が基本になっている。また入試内容にしても、学力をためすというよりは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的にはこの構図は明治以来、変わっていない。 その結果というか、今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこの進学高校にも、いわゆる頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は成績の数字だけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、「こんなことでいいのか」と、少なからず疑問に思ったことがある。 ●学ぶことは苦しい では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今までの一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。 そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気づくはず。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。「学ぶということは楽ではない」と。だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうものであり、また学力を養うということはそういう苦痛との戦いでもある。つまりそれだけたいへんだということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年06月26日 07時54分31秒
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