●自己開示
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司自己開示の限界 徹底した自己開示。それが信頼関係の基本であることは、まちがいない。しかしその自己開示にも、限界がある。 たとえばあなたがある男性と、不倫をしたとしよう。何度も密会し、性的関係もある。相手の男にも、妻子がいる。 そのときあなたは愛に溺れながらも、一方で、その罪の重さに悩む。苦しむ。あなたがまともな女性なら、心苦しくて、夫と顔を合わせることもできないだろう。 しかしそれで夫との信頼関係が、崩壊するわけではない。あなたはその秘密を、心の奥深くにしまう。そして何ごともなかったかのように、その場を切り抜けようとする。あなたには、夫も子どももいる。そんなやるせない女心をみごとに表現したのが、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』である。映画の中では、主人公のフランチェスカが、車のドアを迷いながらも、しっかりと握りしめる。あのワンカットが、フランチェスカの心のすべてを語る。 そこで問題は、夫婦であるという理由だけで、妻は、夫にすべてを語る必要があるかということ。仮に成りゆきで、ほかの男性と性的関係をもったとしても、だ。だまっていれば、バレないし、夫も、それによってキズつくことはない。 つまりここで自己開示の問題が、出てくる。そこでオーストラリアの友人(男性)に、メールで聞くと、こう話してくれた。 「ウソをつくのは、まずいが、聞かれるまでだまっているのは、悪いことではない」と。 何とも微妙な言い回しだが、「聞かれてもだまっていればいい」「またそういうことは、夫や妻に聞くべきではない」とも。 仮に自分の夫や妻が不倫をしても、「その範囲」にあれば、それもしかたないのではということらしい。そこで私が、「君は、不倫をしたことがあるか?」と聞くと、「君と同じだ」と。ナルホド! 私は自分のワイフのことは知らない。しかし、そういうことは聞かない。信頼しているとか、いないかということではない。聞いても本当のことは言わないだろうし、ウソを言われるのは、不倫より、つらい。 一方、ワイフも、私には聞かない。反対の立場で、同じように考えているせいではないか。 世俗的な言い方だが、結婚生活を三〇年もつづけていると、いろいろなことがある、ということ。不倫もその一つかもしれないし、そうでないかもしれない。私たちは夫や妻である前に、人間だ。人間である前に、動物だ。夫や妻になったからといって、人間であることを捨てるわけではない。動物であることを捨てるわけではない。 だからどうせ不倫をするなら、命がけでしたらよい。夫や妻である前に、人間の。人間である前に、動物の。そんな雄たけびが聞こえるような不倫をしたらよい。恋焦がれて、苦しんで、自分を燃やしつくすような不倫なら、したらよい。「私は人間だ」と、心底から叫べるような不倫なら、したらよい。が、それができないなら、不倫など、してはいけない。 ……と話がそれたが、夫婦の間でも、自己開示には限界がある。それは「相手をキズつけない」という範囲での限界である。いくらさらけ出すといっても、相手がそれによってキズつくようなら、してはいけない。またそういう限界があるからといって、信頼関係が築けないということでもない。 私はこのことを、最近知った。このつづきはどうなるかわからないが、もう少し、考えて、また報告する。(030924)++++++++++++++++++++++久しぶりに「マジソン郡の橋」を思い出したました。以前書いた原稿を、再掲載します。++++++++++++++++++++++●母親がアイドリングするとき ●アイドリングする母親 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。●マディソン郡の橋 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。●不完全燃焼症候群 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。●思い切ってアクセルを踏む が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。(中日新聞東掲載済み)●Where there is sorrow, there is holy ground.-Oscar Wilde悲しみのあるところに、神聖な土壌がある。(オスカー・ワイルド)●"According to the Buddha, these are all signs of a false identity: fear, attachment, shame, compulsion and rigidity. Hmmm. I feel like if I didn't have these things, I'd never clean my house. What's up with that?" - Nerissa Nields「ブッダによれば、恐れ、依存、恥、強制、がんこ。これらはすべて偽の自分自身の兆候だそうね。ウム。もし私に、そういうものがないなら、私の家は、掃除しないでしょうね。それがどうしたというの?」(N・ニールズ)●I hate quotations. Tell me what you know. - Ralph Waldo Emerson引用は嫌いだ。あんたの言葉で言え。(R・W・エマーソン)●Do not go where the path may lead instead go where there is no path and leave a trail. - Ralph Waldo Emerson道があるところを行ってはいけないよ。足跡が残るような、道のないところを行きなよ。(R・W・エマーソン)●A day without sunshine is, you know, night. - Shannonサンシャインのない日というのはね、夜だよ。(シャノン)●My advice to you is to get married: if you find a good wife you'll be happy: if not, you'll become a philosopher - Socrates私からあなたへのアドバイスはね、結婚することだよ。よい妻を見つければ、あんたは幸福になるだろう。そうでなければ、あんたは哲学者になるだろう。(ソクラテス)●The unexamined life is not worth living. - Socrates吟味されない人生は、生きる価値はない。(ソクラテス)