●マリアの処女懐胎(2)
Dear my friend, DD,Thank you for your mail.The reason why I have been interested in Maria and Joseph, Mother and Father of Jesus Christ is that the concept of family is different between mothers and children, and between fathers and children. I mean hereby that the Austrian psychologist Dr. Froid once wrote in is book, that the relationship between mothers and children is stable but the relation between fathers and children is less stable. Then I have come to notice that in Christianity people worship Maria, not but so often Joseph. So I wondered why? Wasn’t Joseph a father of Jesus Christ? Everybody says the father of Jesus Christ is God himself, not Joseph. If not then, what was he? For what he was with Maria and Jesus Christ? Some people say that Joseph was not met by angels as Maria was, and Joseph passed away before Jesus Christ started his job as a son of God. Then what was Joseph? Could he accept Maria with Jesus Christ? If I had been Joseph, I would not have been able to accept it, but frankly would have kicked out my wife when she had said that she had got pregnant but the baby was not my son. I can understand the concept of marriage was not the same as we have now. But still there are lots of un-understandable facts, about which I asked you over the phone. So I have been thinking about this. Thank you for your comments, which is very helpful.Hiroshiメール、ありがとう。なぜ今、ぼくがマリアとヨセフに興味があるかといえば、母親と子ども、父親と子どもの関係は、違うのではないかということを考えているからです。フロイトも、そう言っています。キリスト教では、マリアを祭りますが、それに比べてヨセフの影は、薄いですね。それでキリスト教国では、どのように考えているかと興味をもったわけです。ヨセフは、イエスの父親ではなかったのか、と。一説によると、ヨセフは、マリアのように、神の啓示を受けていない。またイエスが神の子としての仕事を始める前に、ヨセフは死んでいる。となると、ますますわからなくなります。当時の結婚の形態が今と違うことは、ぼくにも理解できます。しかし理解できない面もたくさんあります。で、このことをずっと考えていました。コメントを送ってくれて、ありがとう。浩司より++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司●親の悩み オーストラリアの別の友人のJJから、こんなメールが届いている。このところ息子(23歳)の婚約のことで悩んでいる。毎日のように、メールを交換している。今朝も、こんなメールが、届いた。 JJが言うには、息子(SS)の婚約者(LL)と、彼のワイフ(NN)と娘(RR)との折り合いが悪いということらしい。息子の婚約者が、あからさまに、息子に、「私は、あんたのお母さんと、妹が嫌い」と言っているらしい。それで友人のJJは、その調整に苦しんでいる。これは私が何度かアドバイスしたあとの、友人からのメールである。「Thanks for your reply.We have essentially taken the view that you have advised.基本的には、君の忠告に従う。NN(his wife) in particular has spoken her mind to SS (his son) and LL(his fiancé) in her usual very frank manner. Now the engagement is announced she has decided to "step out of the picture", not interfere any more and give what support is necessary.私の妻はいつものフランクな言い方で、息子とフィアンセには、話しかけてはいる。しかし婚約が発表されてしまった今、フィアンセは、「写真の中から飛び出した」(いい子ぶるのをやめた)ようだ。で、私は彼らにあまり干渉しないで、必要なことはする。I don't think LL is a particularly Bad person, just that she lives on her emotions and needs all attention focused on her. Especially SS‘s. NN and RR (his daughter) are a bit more skeptical about her.フィアンセは、とくに悪い女性ではないと思う。ただ彼女は息子の関心を自分にひきたいため、感情に任せて生きている。それで妻や妹は、彼女に懐疑的になっている。I find I can't "connect" with LL. There is not much feeling comfortable or communicating easily with her.フィアンセのLLとよい関係を保つことはできない。彼女といっしょにいても、私は居心地は悪いし、気が休まらない。Let's hope they both "grow up" and see the world and particularly NN and RR in less black and white terms.彼らが成長し、彼女がワイフや娘を、あまり白黒はっきりとした目で見ないようにするのを望むしかない。My job is to keep talking to SS and LL and try to push them gently in the right direction. There is no particular "bust up" between them and me.私がすべきことは、息子やフィアンセが、ワイフや娘に正しい方向でやさしく接するように、話すこと。彼らと私の間は、とくに悪いというわけではない。Things are even more complicated though, since RR 's new boyfriend, DD, is partners with SS in a building construction business. Worse than that he is a long time friend and ex-boyfriend of LL's!!!!が、さらに悪いことに、もっと事情は複雑。というのも、娘の新しいボーイフレンドのDDは、息子のSSの仕事仲間。そのボーイフレンドのDDは、息子のフィアンセのLLの、前のボーイフレンド!!! 長くつきあっていた。Oh what a tangled web we weave!!!何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!JJJJより」 こうしたメールの内容はともかくも、私がいつも不思議に思うのは、つぎのこと。このJJ君にしても、日本では考えられないほど、すばらしい環境の中に住んでいる。今度新しい二階建ての家を建てたが、周囲には、ほかに家が見当たらない。少し離れたところには、小さな湖がある。もちろんそれも彼の敷地の一部である。奥さんは女医で、自分は、政府の農業指導員をしている。息子はアデレード大学を卒業し、建築技術者。娘は、今、同じ大学の医学部に通っている。そういう彼が、「どうして悩むのか?」と。「ない人」には、ないことがわかるが、「ある人」には、あることがわからない。私から見れば、その友人は、まさに夢のような生活をしている。いや、私も若いころ、いつかオーストラリアに移住して、そんな生活をしてみたいと何度も思った。しかしその友人にしてみれば、それがふつうの生活であり、何でもない生活ということになる。だから私はこうしたメールを交換しながらも、つい、こう言いそうになる。「君たちはうらやましいような生活をしているのだから、まずそれに感謝しなければいけない。息子が多少、気に入らない女性と結婚することになっても、がまんしなければいけない」と。 しかし、もちろん、当の本人にとっては、そうではない。深刻な問題である。私にはその「深刻さ」が、不思議でならない。● 幸福というのは、遠くの未来にあるかぎり光彩を放つが、つかまえてみると、もう何でもない。……幸福を追っかけるなどは、言葉のうえ以外には、不可能なことなのである。(エミール・アラン「幸福語録」、1861-1951、フランスの哲学者)アランは、「幸福などというものは、手にしたとたん、幸福ではなくなる」と。……となると、これは、そのまま私たちの問題となる。今、私は幸福でないと思っている部分は多い。しかしその中には、人もうらやむような幸福があるかもしれないということ。それについては、老子(中国、道家の根本書物、「老子道徳経」ともいう)は、こんなふうに書いている。● 不幸は、幸福の上に立ち、幸福は不幸の上に横たわる、と。つまり不幸があるから、幸福がわかり、幸福があるから、不幸がわかる、と。もう少しわかりやすい例では、他人の不幸を見ながら、自分の幸福を実感する人は、いくらでもいる。そういう点では、人間は残酷な生きものである。ラ・ロシェフーコ(フランス人作家)も、「われわれはみな、他人の不幸を平気で見ていられるほど、強い」(「道徳的反省」)と言っている。これらは、いわゆる幸福相対論だが、相対論だけではすまされないところが、幸福論の、また深遠なるところである。こう書いている神学者がいる。● ささいなことで喜びをもちうることは、子どものみではなく、不幸な者の、高貴な特権である。(リチャード・ローテ「箴言(しんげん)」、1799-1867、ドイツの神学者)少し皮肉的な言い方だが、ローテが言っているのは、こういうことだ。 子どもはささいなことで喜ぶ。同じように不幸な人は、身のまわりから、ささいな喜びをさがして、それを幸福とすることができる、と。つまり幸福というのは、相対的なものであると同時に、視点の違いによって、どうにでもなるということ。幸福だと思っている人でも、視点を変えてさがせば、不幸なことはいくらでもある。同じように不幸だと思っている人でも、視点を変えてさがせば、幸福なことはいくらでもある。もっと言えば、「幸福」などというものは、得体の知れないもの。さらに言えば、実体のない幻想ということになる。 友人のメールを読みながら、その内容もさることながら、私は幸福論について、改めて考えてなおしてみた。多くの文人や哲学者たちが、人生最大のテーマとして考え、そして考えてきた「幸福論」。これで結論が出たわけではないが、今日はここまででひとつの区切りとしたい。このつづきは、また別の機会に考えてみる。 しかしそれにしても、まずい。娘のボーイフレンドが、息子のフィアンセの、元ボーイフレンドというのは! 向こうで「ボーイフレンド」というときは、性的関係のある人をいう。日本では、こういうのを、「腐れ縁」という。こういう腐れ縁は、何かにつけてトラブルのもと。しかしこの問題だけは、親でもフタをすることはできない。言うべきことは言いながらも、あとは様子を見るしかない。まさに「何とからんだクモの巣を、私たちは編むことか!」ということになる。