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楽天・日記 by はやし浩司

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2008年08月08日
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●壮大な思いこみと迷信

++++++++++++++++++H.Hayashi

日本の仏教を、一言で言えば、壮大な思いこみと迷信。
その(かたまり)といってもよい。
もちろん(教え)は、(教え)として、ある。
しかし本当に(教え)を求め、(教え)に従っている
人は、いったいどれだけいるだろうか。

++++++++++++++++++H.Hayashi

これは信者の側の問題かもしれない。
が、(儀式)を仏教の教えと誤解している人も多い。

私の母にしても、寺では、たいへん熱心な信者として
知られていた。
ある時期は、家にいる時間よりも、寺にいる時間の
ほうが長かった。

そんな母でも、今は、信仰の「し」の字もしていない。
私の家に来たときも、そうだった。
まだ自分で何とか歩けるような状態だったが、
仏壇には、目もくれなくなった。
私は昔の母をよく知っていたので、そのときは、
そういう母を見て、本当に驚いた。

その母のばあい、信仰といっても、実にささいなことにこだわった。
仏壇にかかげる戒名札のかけ方が、少しでもおかしいとか、そういうことだった。
位置が少しでもずれていたりすると、文句をつけた。

で、今度は僧侶側の問題だが、宗派によっては、小僧の段階から
修行に修行を重ね、僧職につく僧侶もいる。
しかしそうでない僧侶のほうが、実は多い。

たいはんの僧侶は親の職業を受け継ぎ、それほど修行らしい
修行を、ほとんどしないまま、僧職に就く。
親が僧職にあるという理由だけで、だ。
こういうばあい、「会費」(?)なるものを毎年、本山へ納めれば、
僧籍を失うことはない。

私の友人(当時45歳)は、こう言った。
「俺は、失業したら、寺の坊主にでもなるよ。僧籍だけは残してあるからな」と。
驚いて私が、「おまえが坊主をするのか?」と聞くと、その友人はこう言った。
「おやじが、会費だけは払っていてくれるから」と。

宗教があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教がある。
だから、現実がそうであるかといって、日本の仏教を
批判しても意味はない。

端的に言えば、僧侶に読経してもらわなければ、成仏できないと、
ほとんどの人は、そう思いこんでいる。
が、これなどは、まさに迷信のきわまり。
そんなことは、釈迦は、一言も言っていない。

だいたい「成仏」とは何か。
この日本では、「死んだ人は、すべて仏になる」と教える。
つまり釈迦という「仏」と、同格になるという。
大乗仏教の教えによれば、そうだ。

……と書いたところで、私は何も日本の仏教を否定しているのではない。
(批判はしているが……。)
「死」は、その人の理性や知性を乗り越えたところで、私たちを襲ってくる。
道理や合理だけで、「死」を処理できる人は少ない。
病気にしてもそうだ。
「あなたはがんです」と宣告されて、平静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
(私も、がんを宣告されたら、かなり狼狽すると思う。)

同じように、肉親や家族、兄弟の死であれば、なおさらだ。

で、私も数日前、実の兄を亡くした。
享年、70歳(数え年)だった。
いろいろ考えるところもあった。
言いたいこともあった。
しかし私は、すべて、その地域のしきたりに、そのまま従った。
具体的には、義兄と姉の指示にすなおに従った。
(おかげでかなり派手な葬儀になってしまったが……。)

私はこう考えた。

あれこれ抵抗して波風たてるくらいなら、静かにしていたほうがよい、と。
ついでに言うなら、「どうせ意味のない儀式なのだから」と。
あのアインシュタイン博士も、そう書き残している。
「宗教というのは、100%の迷信である」(ある人物への私信)と。
しかしそれで遺族の悲しみや苦しみが、多少なりとも癒されるなら、それはそれでよいことではないか。

ただ私の兄のばあい、子どものころからいっしょに遊んだという記憶が、ほとんどない。
年齢も離れていた。
さらに晩年は、病気との闘い。
寝たきりの状態で、半年以上も過ごした。
僧侶による読経の最中、私は、こう感じた。
「兄は、孤独やさみしさ、すべてを背負って逝ってくれた」と。

だとするなら、葬儀のしかたにも、もっと別の方法があってもよいのではないのか。
大切なのは、「形」ではなく、「中身」。
が、現在の葬儀には、大きな疑問が残る。
率直に言えば、僧侶にお金を儲けさせるためだけのもの。
私の家の宗派は、たいへん良心的な宗派で、姉たちの言葉を借りるなら、
「安い」。
が、それでも、戒名に応じて、30~80万円。
寺の格式(?)に応じて、上限はない。

もちろん葬儀社への支払いもある。
その額が、100~120万円。
これとてミニマムな価格だそうだ。
少し派手な葬儀ともなると、300~500万円が相場とか。

一方、香典などによる収入は、おおむね3分の1から2分の1。
残りは、遺族個人の負担ということになる。
ただ私は、こう考えた。

「兄は生涯、健康にも恵まれず、家族や家庭にも恵まれなかった。
葬式くらい、一人前に出してやろう」と。

そのとたん、心が晴れた。
気が楽になった。

が、それにしても……。
現在、都会地域では、約30%の家族が、「直葬(ちょくそう)」という方式で、葬儀を行っているという。
「直葬」というのは、死亡した病院や施設などから、直接火葬場へ運ばれ、そこで火葬に付されることをいう。
そのあと、葬儀は個人の家で行う。
僧侶を呼ぶケースもあるそうだが、呼ばないケースもふえているという。
家族だけで、静かな(お別れ会)をして、それでおしまい。

で、遺骨は、どうするか?
今では、散骨という方法を選ぶ人も、ふえてきた。
故人の思い出の地に、遺骨をまく。

そうでなくても、それまでの介護で疲れ切っている人も多い。
介護費用もかさみ、葬式費用などどこにもないという人も多い。
中には、「親の葬式は、借金をしてでもやれ」と説く人もいる。
しかし私もその「親」だが、そんなことを息子たちには、させたくない。
私の葬式など、どうでもよい。
だから散骨でも、よい。
が、「それでは成仏できない」とは!
しかも戒名の「号」によって、差がつくだと!

もしこれが事実とするなら、日本の仏教は、根底からインチキと断言してよい。
だいたいすべてが、釈迦仏教の精神に反する!

が、(伝統)を踏襲する人たちは、まさにノーブレイン(=思考力ゼロ)。
「あの家は、こうした」
「あの宗派は、ああした」と。
それだけを金科玉条のごとくにふりかざして、それに従わない人を否定する。
攻撃する。

あとは見栄、メンツ、世間体。

つまりこういう人たちが、何も考えることなく、そのまま過去を踏襲していく。
が、これでは何も変わらない。
変わらないばかえりか、ますます仏教を儀式化してしまう。
形骸化してしまう。

どうしてみんな、もっと自分の頭で、考えないのだろう?





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最終更新日  2008年08月08日 06時25分44秒
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