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ジージの南からの便り

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2021.02.18
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カテゴリ:西郷隆盛


 先日、高校同期会の歴史会主宰のk くんから一通のメールが入った。
その前に井口富夫さんの「史跡ひとり歩き」を送ってくれたのも彼である。
メールによると、「西郷家の墓地」に「徳嶋仲祐」という人の墓碑がある。その「徳嶋仲祐」は、同期生のNくんの遠い親戚だという。                                             

 下の写真は「徳嶋仲祐」の墓碑。墓石の風化と白がかった苔に覆われて文字が見えにくくなっていた。この墓碑はそれでも何とか判読できる数少ない墓碑の一つであった。
間違っているかもわからないが、「慶應二年 玄道智徳居士 十二月廿六日」と読むのが精一杯だった。



 そういう中で、思い出した記事がある。それは「西郷の身替りになった男」(文藝春秋 平成29年10月19日発行のー12月特別増刊号・永久保存版「西郷隆盛を知る」)である。筆者は霊山歴史館副館長である木村幸比古氏。
曰く「西郷を慕ったがゆえに若くして散った男と西郷の悲しみを追う」とあり、元京都鹿児島県人会副会長のA氏が自分のところにある資料を持ち込んだということから、話は始まる。
実は同郷の徳之島仲祐(なかすけ)(クマタツ注 徳嶋仲祐のことと思われる。なおNくんによると当時は徳之島の人は全て徳之島という姓で呼ばれていたのではないかという)という人物は文献には病死となっているが、どうも西郷隆盛と間違われて新選組の土方歳三に斬殺されたらしい。一度調べてほしいといわれたそうだ。その資料は昭和21年5月31日付で、奄美新聞に掲載された安藤佳翠「大西郷と徳之島仲祐」と、この小論に対し同39年4月1日付で小林三郎が書いた「琉仲為とその一門」(安藤氏寄稿に応えて)であった。
 西郷と仲祐の関係は前述のとおりでも西郷の身元引受人は同じ徳嶋仲為であるが、ここでは「琉仲為」となっている。そして実際は仲祐の伯父に当たり後に仲祐が仲為に養子入りして親子となっている。仲祐は神童の誉れが高く、漢籍を父や伯父に学び、角力でも彼の右にでる者はいなかった。仲祐は西郷に道案内など身の周りの世話をし、西郷の語る諸国の話を楽しみにした。
仲祐は西郷に聞いた京の町のことが脳裏を離れず、西郷の罪が許されたら京へ連れて行ってくれと頼み込むようになっていた。西郷も流罪が解けて鹿児島に戻ることがあったら必ず呼び寄せると約束した。
 ある日、愛加那親子が西郷を訪ねてやってきた。しかし、一方で西郷にはより厳しい藩命が下る。この度、さらに沖永良部島に遠島を申し付けるものなりという厳しものだった。島津久光の私怨以外の何物でもなかったとされる。沖永良部島での西郷は昼夜番人の監視のもと、豚小屋同然の寓居で日々を過ごす。元治元年(1864)2月21日、思いもかけず藩命を受けた吉井友実と弟・西郷従道が胡蝶丸で召還にきた。西郷は復帰するや、八・一八の政変で西下した五卿問題で奔走し、長州との薩長同盟を慶應2年(1866)1月21日坂本龍馬立会いのもと締結した。2日後、龍馬は幕吏に寺田屋で襲撃を受けた。同じころ西郷も幕吏から狙われ2月30日帰藩する。
 諸事落着し、西郷が仲祐を徳之島から薩摩に呼び寄せたのは慶応2年の夏ごろだった。仲祐は21歳になっていた。9月、西郷は大目付陸軍係に任ぜられ、翌月15日、小松帯刀と西郷と仲祐の3人は薩摩を出発し同月26日入洛した。仲祐にとって京は別世界、見るもの全てに感激の日々だった。
 一方、新選組は連日市中巡邏と浪人狩りに明け暮れ、ひそかに大物暗殺を企てていた。土方は部下に命じ薩摩藩邸近辺の探索をはじめ、ついに藩邸近くの西郷の宿をつきとめる。西郷は身長180センチ、体重は100キロを越す巨漢である。西郷は藩命で多忙を極めていた。一方、仲祐は西郷から言いつけられた諸用で市中を走りまわっていた。師走25日の夜半、仲祐が用を終えて宿の近くまできたとき、数名の浪士風の男とすれ違った。そのうちの一人が振り向きざま白刃を振い、真向に後ろから切り下げた、力強い一撃だった。襲ったのはのは新選組。隊士の一人が近づいて仲祐の顔を覗き込み、土方に一言告げるや、土方は一瞬身を震わし、引き上げる手合図をおくった。全員闇の中へ走り去った。新選組に戻った土方は近藤に、その首尾を告げた。「局長、しくじった。西郷と思って斬ったら下僕だった」
 28日訃報を聞いた西郷は急遽京に戻った。変わり果てた仲祐の姿を見て、やはり連れてくるべきではなかったかと悔い翌日涙ながらに郷里に一書をしたためた。この後に、先に述べた奄美新聞に小論を書いた小林三郎が仲祐の調査に打ち込んだ話や新選組の近藤勇の子孫と偶然に会ったことなどが書いてあるが、ここでは割愛する。

 西郷家の墓地に建てられた仲祐の墓碑にはこの記事によると「玄道知徳居士 慶応二丙寅十二月二十六日」、側面には「於京都没、徳之島仲祐」と刻むとある。

 一番先に取り上げた「KAGOPIC」というホームページでは病死、次の「西郷の身替りとなった男」では殺されたという二つの説があって真相はどこにあるのかと考えた。
そこに歴史作家・桐野作人(出水市出身)氏が南日本新聞に連載された「さつま人国誌」で掲載直後にブログに更なる解説などを書いた「膏盲記」に「徳嶋仲祐と西郷隆盛」を書いた時の ー徳之島出身、京都で客死- という記事に出会った。
 この記事の中の「徳嶋仲祐」の部分には次のような記述がある。
「ところで、仲祐は病死ではなく、新選組、それも土方歳三に斬殺されたという説があるようである。しかも、西郷の護衛をしていて、体格などが西郷と似ていたため、間違って斬られたと具体的に書かれているのを見たことがある。しかし、寡聞にしてその典拠を知らない。(中略)少なくとも新選組関係の信頼できる史料にはそのような記述はないと思うし、薩摩側も同様である。
 仲祐が亡くなった慶応2年(1866)12月26日は奇しくも孝明天皇崩御の日であり、京都では激震が走った時期。またこの時期、薩摩藩と幕府は幕長戦争をめぐって対立関係にあるが薩摩の要人を襲撃するような情勢ではない。そうした点からも、新選組による惨殺は考えにくい」と結んでいる。
この桐野作人氏の説が結論かと思うが、さあ、これらの説をどう受け止めて考えるか、皆さんどう考えますか。





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Last updated  2023.03.16 18:32:17
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