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カテゴリ:西郷隆盛
(2018年9月14日撮影の「南洲翁終焉之地」碑) 西郷隆盛の最期の様子については地元鹿児島でもあまり知られていないのではないか。 西郷の最期については、2018年9月2日の当ブログ「西郷どん 城山へ向かう。140年前にタイムトラベル」に少し触れている。それは明治10年9月1日が西郷が鹿児島に退却した日から140年に当たるため「上町維新まちづくりプロジェクト」が主催したこの催しに友人たちと参加して書いたものだ。 明治10年(1877)2月15日、鹿児島では珍しい大雪の中を薩軍1番隊が熊本方面へ向かう。 それを追って2月17日、西郷も桐野利秋などと出発する。 それより前、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白に基づく西郷暗殺計画の陰謀があったことを知り、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱吉に届けた。 それから約半年、戦い利あらず最後の激戦、宮崎延岡での「和田越の戦い」に敗れて約600名が城山まで退却の道を辿る。 最後の時は来た。明治10年9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。 その様子を「西郷の女たち」の著書のある作家・阿井景子さんが「文藝春秋」平成29年12月1日発行の「12月特別増刊号・永久保存版」「西郷隆盛を知る」の中で「西郷はどのように死んだのか」という一文を書いている。 「明治10年9月24日、西南戦争の城山で西郷は斃れた。しかし、どのような最期だったのかは、あまり明らかにされていない。信頼できる資料を元に『その時』を検証する」と書き始めている。 私なりのまとめ方で、概略を述べたい。 いきなりだが、西郷の介錯をした別府晋介の刀が出てくる。 ふつう介錯には脇差ではなく長刀が用いられているが、あらかじめ西郷から介錯を頼まれていた別府は長刀を用意していたと思われる。その別府の刀はどのようなものだったのか。「鹿児島之史蹟」の著者・林吉彦氏は「二尺八寸丸田惣左衛門正房」の刀を揮って介錯した、と記している。 陸軍少佐だった林は大正13年3月予備役になると、西南戦争の生き残りを訪ねて精密な調査を行った。文献を調べ、現地を踏査し、西南の役体験者の談話を集めた林は、その談話に潤色が多いことを指摘している。 そして林の記述をもとに、西郷の最期を検証している。 というのも従来の書物の多くが、緊迫した戦況、岩崎谷の地形を念頭に置いていないからだという。 明治10年9月24日。 西郷が城山の洞窟を出たのは、午前6時過ぎだったと思われる。洞窟前に勢揃いした桐野利秋と40余名の将兵は、西郷を囲むように走り出す。岩崎谷入り口堡塁に移動し、全員斬り死するつもりである。だが、堡塁に向かう谷底の道は幅2間の狭さで、行列は縦隊にならざるを得ない。恐らく将兵は西郷を行列の中に挟み込み、2,3人づつ駆け下りたと思われる、 岩崎谷が火点(鉄砲など装備)となっていたからで、政府軍はわずか2時間の間に、城山の他の塁をすべて陥れていた。彼らは唯一残った岩崎谷堡塁(薩軍はここを本営にしていた)をめがけて、鉄砲を猛射した。薩軍が歩いて移動できるような状況ではなかった。古老の話にも、40余名の将兵は「黒い疾風のように走った」とあるそうだ。そのあと、走り出した途端に桂久武が雨のように注ぐ弾丸に斃れたとか、雑誌、書籍によく書いてあるように、この谷道で辺見十郎太が「この辺でどげんでしょうか」と自刃を問うと「まだまだ」と答えたといったというが、そんなのんびりした状況ではなかった。 別府晋介の下僕で大内山平畩(ひらげさ)(加治木出身 当時16歳)は、そのことを裏付けるように「官軍の弾丸がどんどんくる中を・・・進むなかに沢山の人が弾にあたって倒れていた」と述べている。平畩は、畩市(垂水出身)と二人で別府晋介の輿(別府は脚に負傷し、歩行困難)を担ぎ、西郷のあとに続いていた。だが島津應吉(まさよし)邸(下記地図参照)の少し上で、畩市が弾丸にあたって動けなくなったので、平畩は別府を背負い坂道を駆け下る。以下、平畩の話。 私は別府さんを背負って進みました。そのため西郷さんなどからは少し後れました。そして島津さんの前に行った時、西郷さんが股を撃たれ少し脚を上げて停まっておられましたから、別府さんが先に行く方々に「先生が弾丸に中っておられるが、いけんすっか」と叫ばれました。西郷さんは別府さんに向かって「もー歩かれぬから、首を斬ってくれ」と言われましたから、別府さんが一撃に斬られました。その時私は別府さんより先に岩崎谷台場(堡塁)右手(坂を下って行くと左手)にある鮫島さんの内(うち)に着きました。 別府は西郷の首を一撃で斬った。ぐずぐずしていたら別府も弾丸にやられていたにちがいない。 平畩がいなくなったので、西郷の首は薩軍の士が持って去り、土中に埋めたという。(『鹿児島之史蹟』より) 前述の平畩はその後政府軍に捕らえられる。そして最後にこう述べている。「・・・その後私が米蔵に送られるため今の高野山の辺りを通る時に、別府さんの輿に西郷さんの屍体を載せて通るのを見ました。 以上が阿井景子さんの文章の概略である。 下の写真は一番上の写真にある「南洲翁終焉之地」碑(マンションの手前)前から城山洞窟方向を写したものである。この坂道を下ってきたが、西郷が自決し別府が介錯した場所はずっと先に小さく見えるマンションの向こう側である。 下の写真の場所が島津應吉宅があった場所で、この辺りが最期の場所である。 下の写真の手前の建物辺りが西郷の首が発見された場所とされる。 その後のことについては別な読み物がある。「西郷の首を発見した男」の話 である。機会を見て続編みたいな形で書けたらいいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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