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ジージの南からの便り

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2022.02.27
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カテゴリ:西郷隆盛

                   (鹿児島市に立つ陸軍大将姿の西郷隆盛像)
 私はこれまで西郷隆盛がいわゆる征韓論に敗れて辞表を出して中央政府を離れ地元鹿児島に帰ってきたのは西郷が「征韓論」に固執して敗れたのではなく朝鮮に使節を派遣して平和的に解決しようと意図しようとしたことで、政府と意見が対立してそれに敗れて帰鹿したと思って当ブログにもそのように書いてきた。

 しかし今回これまで積読で置いていた桐野作人著「薩摩の密偵 桐野利秋」 ・「人斬り半次郎」の真実 を読んで、いささか間違った判断をしていたことがわかった。

 そもそも「征韓論」は一体何だったのか、復習してみた。
明治初期、維新政府は朝鮮国王に日本と朝鮮との友好関係を期待し求めたが、朝鮮政府は鎖国政策を取り続けて交渉拒絶を回答してきた。そのような中で明治6年(1873)5月、朝鮮国釜山にある日本公館から外務省に送られた報告があった。それによると、朝鮮国が日本商人の密貿易を取り締まったとき、日本側の公使館の門前に日本を「無法の国」と侮辱するような書札が掲げられたという。この事件が発端となり、今度は日本側が態度を硬化させた。それについて外務省は人民保護のため先ずは軍艦と陸軍を派遣し、その後に使節を派遣すべしとした。この外務省の意見を支持したのは参議の板垣退助で強行派だった。これに対し反対したのが同じ参議で近衛提督の西郷隆盛だった。西郷はまず使節を派遣すべきであり(遣韓論)、それに対して朝鮮は暴挙に出るだろう、そうなれば出兵の大義名分が立つ(征韓論)、と述べた。

 私の理解はそこまでで当ブログにこれまで西郷は前段の「遣韓論」を主張し、それが上手くいかない時に初めて「征韓論」に傾くという説をとってきた。 ところが桐野作人氏の「薩摩の密偵 桐野利秋」を読むと私の考えていたような単純のものではなかったということがわかった。

 明治維新後、明治政府はいくつかの外交上の問題をかかえていたという。
①樺太でのロシア人との紛争
②台湾での琉球民殺害
③朝鮮国との国交問題
 ①の問題については今回割愛し②の台湾問題を少しと③の朝鮮国問題のことを考えたい。
西郷が強硬な出兵論を唱える板垣を説得した有名な書簡を送ったには明治6年8月17日だが、1ヶ月前までは西郷の主な関心事は朝鮮問題よりも台湾出兵問題だった。弟の西郷従道(陸軍大輔)への7月21日付で次のように述べていた。
 「さて台湾の模様も少々わかったとのこと。ついては出兵なれば、鹿児島の兵一大隊を召集し、別府氏(晋助)が引き受けたとのことなので、至極よろしいと考えています」
西郷は従道が主導する台湾出兵に賛成で、別府晋助を隊長とする鹿児島士族から一大隊の派遣を提案している。西郷の最大の関心は鹿児島士族の活用に合ったと思われる。
しかし、そのわずか一ヶ月後に、西郷は朝鮮への使節派遣に異常に固執するようになった。

 そこで征韓論問題が政府内において、どのような議論となり、ついには政変と言われるほどの激震になったのかを見ていきたい。
明治元年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いがあり、これが戊辰戦争の始まりとなった。鳥羽伏見の戦いに討幕軍は勝利し、西郷は大総督府参謀となり東下し、旧幕府方の勝海舟と折衝して江戸城無血開城を実現した。上野彰義隊の戦い、奥羽越列島同盟との戦い、会津戦争、翌年5月の五稜郭の戦いで戊辰の内乱は終わった。
そこで 幕藩体制は終わりをつげ、新政府によって統一国家形成は絶対主義官僚機構をもってつくられることとなり、新政府は薩長土肥の四藩からなる藩閥政治となった。中でも西郷の盟友・大久保利通が中心となった。新政府を大久保に託した西郷は帰藩し、鹿児島藩大参事となって兵制の改革強化にあたった。しかし、新政府が西郷を必要とするときがきた。明治4年(1871)の廃藩置県の断行に際して反乱の恐れがあったからである。新政府の目指す中央集権国家樹立のためには廃藩置県は避けて通れない政治改革だった。西郷指揮のもと薩長土三藩の協力で御親兵1万人を東京に集め、非常の際に備えさせたのである。新政府に出仕を固辞していた西郷もこれを契機に政府に留まることになった。
7月に廃藩置県が発令され、11月には岩倉、大久保、木戸ら48名の欧米視察団が出発した。廃藩置県の反動が予想される大事な時期に、政府の要人が半分以上も先進地視察と安政の不平等条約の改正交渉の準備を名目としての洋行であった。
留守内閣の中心人物西郷は、大久保らの専制政治への反動を受けながらも、学制、徴兵令、地租改正条例など新政策も実行し、留守内閣として最大限の役割を果たしていた。
 しかし、先に述べたように西郷は明治6年(1873)7月征韓論が起こると自ら遣韓大使として朝鮮に渡ることを主張したが、欧米視察団の帰国によって抑えられた。岩倉、大久保、木戸ら外遊派の反対に敗れ、参議の板垣、副島、後藤、江藤らと下野することになる。

 今日のブログを書くきっかけとなった西郷の征韓論政変について、桐野作人氏は次のように書いている。敗北した西郷は何を考えていたのだろうか。それは板垣を説得した先の書簡(8月17日付)によく示されている。
「この節は戦争をすぐさま始めるのではなく、戦争は第二段階です。これまでの行きがかりでも公法上は(朝鮮)を討つべき道理はあるけれども、天下の人々はそのことをよく知らないので今日に至っては、まったく戦いの意図をもたないで、(朝鮮の)隣交を阻害する行為を責め、これまでの不遜を正し、今後隣交を厚くする厚意を示すつもりで使節を派遣されたら、必ず彼(朝鮮)が軽蔑の振る舞いを示すばかりか、使節を暴殺に及ぶのは間違いないから、そのときは天下の人々はみな(朝鮮を)討つべき罪を知るようになるので、ぜひここまでもちこまないとならない。内乱を冀う心を外に移して国を興す遠略はもちろん、旧幕府が機会を失して、自分たちの無事ばかり考えて、ついに天下を失ってしまった所以を確証をもって(三条太政大臣に)論じた(後略)」
そして桐野作人氏の言葉は続く。西郷の主な主張は二点あるだろう。ひとつは、いきなり戦争を仕掛けるのは無謀だから、正式の使節を派遣し、先方の非を責め、当方の道理を説くことが大事であること。そうすれば、朝鮮が使節を暴殺するから、出兵の大義名分ができる、というわけである。次に「内乱を冀う心を外に移して国を興す遠略」という有名な一節である。これは政府に不満をもって反乱を起こしかねない不平士族の関心を海外にそらすことによって、政府を安泰にしながら、朝鮮の屈服を実現できる一石二鳥の「遠略」である、ということだろうと書いている。台湾出兵論と同様に,西郷には士族(特に鹿児島士族)を鎮静、救済しつつそれを外征に活用すべきだという持論が常に念頭にあったのだろう。
 こういう思いが戦う相手は明治政府という悲劇とも言える日本最後の内戦「西南戦争」へと結びついていったのだろうか。たらねばという言葉があるが、もしそのとき台湾か朝鮮に士族のエネルギーを向けることができていたら(外征ならいいという意味ではなく、そうことになっていたらという意味)西南戦争は避けられたのではなかろうかと言うのは言い過ぎだろうか。

 この歴史作家・桐野作人氏の文章を読み、西郷は私が思っていた遣韓論の奥に自分の身をなげうって、それを征韓に結びつけるという流れを思い浮かべていたということがわかった。これはも立派な「征韓論」そのもであると思う。

 参考資料
   「薩摩の密禎 桐野利秋」      桐野作人著
   「鹿児島上町の歴史と文化」     鹿児島玉龍高等学校
   「征韓論」の解説          日本大百科全書   他





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Last updated  2022.02.28 07:06:05
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