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ジージの南からの便り

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2022.03.13
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カテゴリ:西郷隆盛

                (上の写真も陸軍大将軍服姿の西郷隆盛、令和4年3月3日撮影)

先日の「西郷隆盛の遣韓論・征韓論を見直す」について、私の属する高校の同期生でつくる「八期オンライン通信」でも紹介したところ仲間二人からそれぞれの考えなど大きな教示をもらうことができた。
 その二人の私の「西郷隆盛の征韓論」についての感想と自分の考えを述べておられるので概要をまとめてみた。
   kazu  n氏のメール概要
 板垣退助への手紙は当時最も激烈な征韓論者であった板垣の行動を抑えるためのもので板垣の論に反対するものではなく、必ずあなたの言う通りにするから、先ずは私を朝鮮に行かせてくれというものであったと思う。西郷さんには、私げ行けば戦争にならず必ず説得し、平和裏に収められるという目算があった。自信はあったが周囲にいる戦争をやりたがる輩をなだめるために私が行って殺されたら出兵の大義名分が立つと強硬派をおさえたのであろう。
 より過激な論で強硬派を抑えるのは西郷さんが最も得意とするところである。
最も述べたいことは征韓論に敗れて下野という見方は短絡的だと思う。廃藩置県直後の2年近くも確たる目的も成果もなく外遊した者たちに反対されたことは腹にすえかねたと思う。維新によって何をなすべきかについて考えや意見に大きな違いがあった。明治6年の政変の本質は征韓論ではなく国家運営に対する考え方と生活態度の批判であった。

   本○どん氏のメール概要
 維新政府成立直後、欧米の政治・経済体制の修学の不平等条約の改定という趣旨で大久保、岩倉などの明治政府の重鎮たちが多勢で2年近くもまだ固まっていない政治状況の中で「外遊」しています。残された西郷、板垣、後藤らの「サムライ」が各藩主たちの反対を押し切って困難な「廃藩置県」や「学校制度の確立と施行」などをやり遂げています。
その以前から西郷の弟・従道が台湾の統治を手掛けたり、琉球・朝鮮への貿易・通商などのアプローチはなされていたのですが、朝鮮との交流が上手く行かず打開のために西郷の主唱したのが、自分が先ず朝鮮へ赴き誠意をもって交渉する。その後、具合が悪ければ、それなりの威嚇を行う。ついては「軍隊を用意すべきである」との「主張」であったと思われます。
 欧米の近代的な国家を学んできた大久保以下の重鎮たちは「今は国の振興を図るべきだ。海外の進出など反対」とのことで西郷らの意志が抹殺されたのです。そこで西郷は鹿児島に帰り、今まで自分らの理想郷【明治政府の確立】のために奮闘してくれた武士集団の事での「私学校の開設」「吉野大地の農地開墾事業」【寺山開墾社】などの事業を起こし、武士階級の「活躍の場」(という生計を立てる事)に腐心したのです。この征韓論は自分が例え倒されても、フリーとなっている武士集団の将来を慮っていたという解釈も成り立つと思います。

 以上お二人の意見の概要を書いたが私なりにまとめれば次のようなことに集約されるのではないかと思う。
1,西郷は朝鮮に対する説得の成算は十分持っていた。
2,一方、西郷の明治政府からの下野は、征韓論に敗れたからではなく、外遊派に対する国家運営に対す  る考え方の相違と、その生活態度に対する批判がそうさせた。
3,欧米の空気を吸って近代的な国家を見てきた外遊派は日本の遅れを知り、日本國の振興が先で、海外進出などは今はすべきではないとした。
4,下野した西郷は在鹿の武士集団のために私学校の開設や農地開墾などで士族の生活を成り立たせるように腐心した。

 このお二人のメールを読んで自分の歴史の見方が直線的で、言い換えれば単純であることに気付かされた。そういう意味で今後の歴史を見る姿勢がどうあるべきか大変いい勉強になった。感謝!

 そこで以前、南日本新聞で、西郷は「平和交渉論者」か というような記事があったような気がして新聞切り抜きスクラップを手繰ってみた。
出ました! 日付は2018年(平成30年)9月20日付けの 1868-2018        明治150年 維新鳴動ーかごしま再論ー である。
そのスクラップを見ると、私はこの記事は本編(第9部)の3回目までしか保存していなっかた。
しかし、その後、一年間連載された記事は2019年12月21日 初版発行で1冊の本として刊行されていて、私も購入している。本の名前も新聞記事の見出しと同じで「維新鳴動」 かごしま再論 である。もちろん南日本新聞社発行で、一年間12部に渡る連載記事とこの本の刊行のために書き加えられた「総括編」を加えた405ページの大作である。 下の写真は第9部の書き出しの「転機の外交 覇権主義胎動 征韓論」である。


 そこにいきなり「西郷は『平和交渉論者』か」とある。
記事を読んでいただければわかるように、「西郷隆盛は征韓論者ではなく、平和的・道義的な交渉による外交樹立を目指していたー」という主張によって、通説(多分、征韓論者だったというそれまでの通説のことだろうと私は思う)に一石を投じ、歴史学会で征韓論政変の研究が進んだといわれるが、その考え方への支持は広がっていないようだ、とある。
そのことについては他の学者から「征韓論者」という見方がある一方で他の学者はさまざまな見方をしたことが書かれている。今後も研究は進んでいくのだろうと思うが、私も自分の学びの中から自分なりの歴史観を持つことも大事だと思う反面、歴史は見る人によって、それぞれの角度があり、見え方があると思うので、これからも「知りたい」「見てみたい」「面白い」というこれまでのスタンスで歴史を知っていきたいと思う。





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Last updated  2022.03.13 22:05:55
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