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カテゴリ:島津一族
この大鳥居は鹿児島市の繁華街から城山の方向に歩いて数分の照国神社である。 鹿児島県で一番「初詣客」の多い神社である。毎年30万人を超す初詣客があるのだが、昨年、今年とコロナ禍のため初詣客も激減した。それでも今年は昨年を上回り26万の初詣客があったそうだ。 わが家も正月は一族揃って照国神社で初詣を済ませて我が家で「しょがっで」をするのが例年の習わしである。因みに「しょがっで」とは「正月例」が訛った言葉で、正月に親族が揃って挨拶を交わす会のことを言う。 「照国神社の御由緒」は下の案内板の通りだが読みにくいので概要をまとめた。 御祭神 照国大明神(島津家28代当主・11代藩主 島津斉彬公) 御祭神の斉彬公は文化6年(1809)薩摩藩主島津斉興公の嫡男として江戸で誕生した。 幼少の頃曽祖父島津重豪(しげひで)公や母賢章院の薫陶を受け、学問を好み、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的知識を身につけた。 斉彬公は嘉永4年(1851)43歳で藩主に就任し、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努めた。更に、その核となった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置し「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに近代日本の礎を築いた。また斉彬公の発案による日章旗(日の丸)な制定は日本が国際社会にその第一歩をしるした象徴である。 斉彬公は安政5年(1858)50歳で亡くなる。藩主在位わずか7年であったが、この間、明治維新で活躍した多くの人材を育成した。文久3年(1863)には生前の事蹟を称えて、勅命により照国大明神の御神号が授けられた。そして、一社を南泉院の郭内に創建し、翌元治元年照国神社と称した。当社は明治6年県社、同15年別格官弊社に列格されて、今日鹿児島県の総守護神・氏神様とそて尊崇されている。 以上 「日の丸」発祥の歴史が書いてある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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