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ジージの南からの便り

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2022.04.13
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カテゴリ:鹿児島の歴史
桐野利秋誕生地 2019年3月撮影

 積読の一冊だった”「薩摩の密偵・桐野利秋」(「人斬り半次郎」の真実)”を2月に読んでその中でわかったことから「西郷隆盛の遣韓論・征韓論を見直す」を2月27日に更に「続 西郷隆盛の遣韓論・征韓論について」を3月13日に当ブログに書いた。しかし、肝心な桐野利秋が薩摩の密偵だったかについては一つも触れないままだった。そこに最新刊の”「旧説VS .新説」幕末維新43人 龍馬も西郷も松蔭も実は主役ではない。” という長いタイトルの本を読んだ。その中でにも桐野が諜報活動を行ったということが書いてある。そこで初めて桐野が密偵だったという説に触れてみたいと思う。
先ず、桐野利秋とはそもそもどういう人物なのか。簡単に説明すると天保9年12月2日(1839,1,6)生まれで、没年は明治10年9月24日(1877)、38歳の生涯を閉じる。
桐野は鹿児島城下北郊の吉野郷実方(さねかた)でに生まれた。家格は御小姓組(与)といえる階級で城下士であり、幕末、戊辰戦争、明治維新、西南戦争で活躍した薩摩藩士である。西郷隆盛を介錯した別府晋助とは母方の従兄弟である。

 私は2019年3月に鹿児島市吉野町にある「桐野利秋誕生之地」を訪問し、同月12日に「桐野利秋(中村半次郎)の誕生地を訪ねる」というタイトルでブログを書いている。
現地にある下の説明板にその人となりと功績が書かれている。
ただ「人斬り 半次郎」として有名になったのは、今から半世紀以上前に書かれた池波正太郎の小説「人斬り 半次郎」がそうした見方を広めたのではないかと言われている。

 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争まで幾つもの危機を乗り越えてきており、政治的にも軍事的にも一度も敗北したことがないという稀な藩であった。長州藩の浮沈と比較しても対照的である。
その政治力の源泉の一つは広範で正確な情報力だったと思われる。その有力な人材として活躍したのが、中村半次郎、のちの桐野利秋である。

 しかしながら、桐野利秋の名前は剣客としての方が、つとに高く「人斬り」としての異称の方が勝っている。そうはいうものの史料の上で桐野が人をむやみに斬ったという事例を見出すことはできない。桐野が人を斬ったのは、「公務」か、襲撃されての自己防衛か、戦争の場合だけと思われる。
示現流の使い手である桐野の刀の錆となったのは、上田藩士で公武合体派の軍学者・赤松小三郎であり、慶応3年(1867)幕府(会津藩)の密偵として白昼暗殺したのだが、これ一人しかいない。

 では諜報家としての桐野をみてみよう。
桐野が情報活動を始めたのは文久3年(1863)からではないかと言われる。桐野は前年、島津久光の率兵上京に随行し、そのまま滞京した。文久2年(1862)から元治元年(1864)までの3年間、薩摩藩の政敵は長州藩だった。そして西郷吉之助(隆盛)が2度目の遠島から帰還した元治元年から情報活動の指揮をとるようになり、桐野はその配下で働くことになった。

 長州藩は前年8月18日の政変で京都を追われていたが、河原町三条の長州藩邸には留守居と称して、まだ100余人の藩士たちが残っていた。そこには土佐藩の脱藩浪士も入り込んでいた。桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸に潜入している。もちろん長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながらのことである。攘夷派が自分たちを正義の志士であるとしていることから、桐野と肝付も自分たちと同じ思想を持ち信用できると判断したのであろう。
この一件から2ヶ月ほど経った6月14日、西郷が鹿児島にいる大久保一蔵(利通)に書簡を送り、その中で長州藩邸に潜入させた「密偵」について報告している。
「中村半次郎と申す者がおいおい暴客(長州の攘夷派)の中に入り込み、長州屋敷内にも心置きなく入れたので、彼方の事情は委しくわかりました。ほかにもいろいろ(密偵を入れて)試みましたが、それほど(長州の事情)がわかりませんでした」この書簡一つをみても、桐野は言葉巧みに探索対象の懐に飛び込んで貴重な情報を得てくる有能な密偵だったことがわかる。しかし、西郷は危惧も抱いていた。それは桐野が長州攘夷派に同化してしまい、帰ってこないかもしれないという心配だった。ところが、西郷はそれも致し方ないとも考えていたともいう。おそらく桐野は長州攘夷派に近い心情や考えの持ち主だったのだろう、という。桐野の密偵としての有能さは、捜索対象に同化してしまうかもしれないほど、紙一重のところで活動していることにあった。

 最後に桐野利秋は下の説明板にあるように「西郷を神のように敬い、父のように慕い、運命を共にした」ことに間違いはないが、次のようなことも言われている。それは、島津斉彬亡きあと、その遺志を継ぐ目的で結成された政治結社・精忠組に加盟することがなかったことや、西郷が遣韓論・征韓論政変で政府に辞表を提出し帰郷して設立された「私学校」に関与はしたものの、その後はむしろ距離を置いた節があるという。桐野は私学校の生徒たちの態度に批判的だったことと、一方で桐野自身が派手好みであったことなどによるのものではなかったのか。西郷は桐野を信任していたにもかかわらず、常に行動するときは彼ではなく、篠原国幹や村田新八を同行していたのは、おそらく西郷がそのような桐野の性癖と好悪を別にしていたためなのだろう。
桐野と異色の友人といわれる、中井弘(大政奉還建白書に手をいれた桜洲の人)は「桐野は西郷の乾分でもなければ、西郷は桐野の親分でもない。只一個の棟梁株である」と言っている。
桐野が大西郷を信仰する気持ちが非常に厚かったにもかかわらず、そのために同化させられるのを免れて、よく自己の性情を全うし、ただ国家の経営、死生の大事においてのみ、西郷と行動をともにし、これに殉じたのであろう。

 参考資料  「薩摩の密偵 桐野利秋」     桐野作人著
       「旧説VS.新説」幕末維新43人  安田清人執筆
         wikipedia   「桐野利秋」





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Last updated  2022.04.15 06:39:19
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