1839277 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ジージの南からの便り

ジージの南からの便り

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

クマタツ1847

クマタツ1847

Rakuten Card

Calendar

Favorite Blog

わくわくするね〜〜(… New! かずまる@さん

今日の散歩 New! やすじ2004さん

昭和・平成の名曲(… New! 悠々愛々さん

新装した「和幸」へ… New! 木昌1777さん

毎日が宝物。 New! ローズコーンさん

Comments

Freepage List

Headline News

Category

2023.07.09
XML
カテゴリ:旅行・ドライブ

 
 上野公園の散策は続く。
いよいよ「上野東照宮」へ。ここからは今回の東京八期会の世話役をかってくれた東京在住のNくんが事前に東京に集まるメンバーに自分で書いた資料を送ってくれたので、そこからの引用となる。

 元和2年(1616)、藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康に呼ばれ末永く鎮魂まるところを作って欲しいと遺言され、寛永4年(1627)藤堂家の屋敷地に東照宮を造営した。




 家光は慶安4年(1651)に社殿を金色殿に造営替えして江戸の象徴とした。
手前から拝殿・幣殿・本殿からなり、その様式を権現造りという平泉の中尊寺光堂と並んで日本に二つしかない金色殿である。明治40年に国宝に指定された。祭神は徳川家康・吉宗・慶喜。

 日本に一つしかない金箔の唐門(唐破風造りの四脚門)。
扉には亀甲の透し彫り、門柱には左甚五郎作の昇り龍・降り龍。高彫門の側面左右上部にある松竹梅に錦鶏鳥の透し彫りは精巧を極めたものである。明治40年、国宝指定。












 旧寛永寺五重塔
五重塔は、上野東照宮の一部として寛永8年(1631)土井利勝によって再建されたが、寛永16(1639)に焼失、同年、幕府の作業方の棟梁だった甲良宗広らによって再建されたのが現在の塔である。(重要文化財)
明治の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の運動により、上野東照宮の五重塔も取り壊される運命にあったが、当時の五重塔が寛永寺管理であることを国に申し出たことにより取り壊しを免れた。(この項はネット「鎌倉手帳」寺社散策より)




 この日のランチは、Nくんが設定してくれた上野公園内の「韻松亭」。
12人の貸し切りの部屋での食事となった。


 籠に盛られた料理に「豆ごはん」や茶碗蒸し、デザートまでついた美味しい食事を団らんしながら楽しんだ。特に「豆ごはん」は美味しかった。




 ランチのあとは「不忍池」の散策。
ここから再びNくん資料。

 かって上野大地と本郷台地の間が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていた事から「不忍池」と呼ばれるようになった。縄文時代の頃は、東京湾の入江で、その後海岸線の後退によって、紀元数世紀頃、池になったと考えられる。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。
1625年、江戸幕府によって西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺が建立された。開祖の慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ弁天堂を造った。元々、舟で渡る島であったが1672年に石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。明治時代の初期までは池の形も現在と大きく異なり、池の北側は今よりも広く藍染川(谷田川)に注いでいた。
1884年、共同競馬会社による競馬場建設によって、埋め立てられほぼ現在の形になった。(中略)
不忍池では渡り鳥、留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ多いときには1万羽を超えることもある。中でも多いのは、キンクロハジロ、ホシハジロ、オナガガモである。魚類では、鯉が多いが、カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚も多い。




 私が以前訪ねたときとは不忍池も大きく姿を変えた印象を受けた。
今回は訪ねた時期も良かったのか、池一面を蓮の緑が覆い、近代的なビルともマッチして素晴らしい景観を見せてくれた。案内してくれたNくんに感謝!





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.07.09 10:32:24
コメント(20) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.