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カテゴリ:旅行・ドライブ
この日は3月28日。サンQパスを使っての旅の2日目である。 前日は博多で私の勘違いでバスの乗り継ぎがうまくいかず、長崎に到着した後「二十六聖人」しか回れなかったので、この日は7時30分頃の電車に乗って、「一本足鳥居」、「原爆落下中心地・松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」など巡り、電車に乗って「オランダ坂」一帯、「孔子廟」「大浦天主堂」「グラバー園」を巡り、グラバー園を出たのは13時を過ぎていた。空腹を抱えて歩いていると「みらく苑」という「ちゃんぽん・皿うどん」の店があった。 入って早速今回長崎で初めて食べるちゃんぽんを注文する。 これまで余り食べたことのないようなちゃんぽんが出てきたが、美味しかった。流石長崎ちゃんぽんの街である。どの店で食べても美味しい。 そこからしばらく歩いて、「唐人屋敷」の到着。今回で2回目の訪問である。一回目の訪問の時も当ブログに書いているが、今回はまた印象が変わった。 「 唐人屋敷」について長崎市のホームページに次のようにある。 寛永12年(1635)から中国貿易は、長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは、長崎市中に散宿していたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となってきた。 幕府はこの密貿易の対策として元禄元年(1688)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年に完成した。 広さは約9400坪、現在の館内町のほぼ全域に及び周囲を練塀で囲み、その外側には一定の空き地を確保し、竹垣が囲った。入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ無用の出入りを改めた。 この門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれた。内部には長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちをここに集め居住させた。 長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていた。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ帰港の日までここで生活した。 天明4年(1784)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わったが、この大火以後、唐人自前建築を許可されるようになった。重要文化財旧唐人屋敷門(現・興福寺境内所在)はこの大火の後建てられた住宅門と思われる。 鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において出島と共に海外交通の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、安政6年(1859)の開国後廃屋化し、明治3年(1870)に焼失した。 土神堂(どじんどう) 天后堂(てんこうどう) 観音堂(かんのんどう) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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