テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:台湾の玉石混淆
蒋介石による国家統治が法的根拠のないものだったという立論は珍しいものではない。
でも、それを台湾国際法学会理事長が新聞への寄稿で堂々と語るとなると意味合いはちがう。 台湾の『自由時報』10月20日号に、台湾国際法学会理事長の陳隆志氏が「台湾国家進化論」と題して一文を草している。 ≪1945年から1952年まで、台湾は第二次世界大戦の連合国側が軍事占領した日本領土であった。≫ ここでまずあっと驚き、そうだ、それが出発点なのだと知らされる。 昭和20年から27年までのあいだも、台湾は日本領だったということ。 もちろんその台湾は、日本国の主権が行使できる状態にはなかった。 昭和20年のポツダム宣言受諾で、台湾をゆくゆくは放棄することを日本は約束していた。 しかし、台湾を放棄するための手続き=講和条約の締結=は、まだ行われていなかった。 だからその時期の台湾は、同時期の日本本土で、たとえば東京や大阪で日本国の主権が確保されていなかったのと国際法的にみれば同じなのだ。 台湾を連合国が占領統治したとはいえ、台湾は中国に帰属したわけでも、まして米国に帰属したわけでもなかった。 依然として日本領だったのだ、台湾は。 じつはこの一点がその後の立論を支えるキーポイントとなる。 陳隆志氏の論を続けよう。 ≪連合国の極東最高司令官の指示にもとづき、蒋介石が率いる中華民国軍が台湾軍事占領を代行した。 しかしそれは、台湾の主権ないし所有権を取得したものではなかった。≫ 「台湾軍事占領を代行した」。 この「代行」の2字が鍵である。 ≪1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国のリーダーたる蒋介石は台湾に逃げこみ、不法軍事戒厳統治を開始した。≫ 台湾の国際法の権威者にして、蒋介石の統治を「不法」と言ってのけた。 陳隆志氏によれば、その「不法」は1987年(昭和62年)に戒厳令が解除になるまで続いたという解釈だ。 ≪1952年にサンフランシスコ対日講和が発効し、日本は台湾と澎湖諸島の主権および一切の権利を放棄するが、しかし台湾と澎湖諸島がどの国家に帰属するのか明確な規定はなかった。 台湾は中華民国にも帰属せず、中華人民共和国にも帰属しなかった。≫ これはさすがに歴史の常識ですね。 ≪日本が正式な放棄を行ってからの台湾は、ながらく蒋介石の中国国民党政権による不法軍事占領の戒厳権威主義統治のもとにあった。≫ さて、中国国民党政権と国交を有した日本、米国などの諸国は「不法軍事占領」だったという解釈を受け入れるか。 ≪1971年10月に連合国組織の総会で可決した第2758号決議は、連合国組織における中国の唯一の合法的代表者が中華人民共和国であり「蒋介石がさしむけた代表者を駆逐する」と決めただけであり、台湾の国際法的地位に関しては何らの決定もおこなっていない。≫ きわめて明解です。 いずれにせよ、蒋介石が京劇のノリで連合国組織からぷいっと引き上げてしまったのは、20世紀の台湾史における最大の誤算だったわけですが。 あの時点で、「台湾国」と改名して連合国組織に残ることは可能でした。 ≪1988年から今日に至るまで、台湾は変貌・脱皮の過程にある。 民主化と本土化(台湾本位の考え方の定着)という大きな趨勢のもと、国民が自ら決定権を行使できる社会となった。≫ ≪1988年に李登輝が大統領の地位を継いで以降、中華民国はしだいに台湾化していった。 1991年に「戦時動員期」に終止符が打たれ、国会も全面改選となった。 1996年には台湾で初の国民による大統領直接選挙が行われた。 2000年には第2回の大統領直接選挙が行われ、政党が入れ替わって、政権交代が平和裏に行われた。 2004年には台湾本位の政権が再度信任された。≫ こうして見てゆくと、1988年(昭和63年)以降の20年こそが「国産み」(くにうみ)の時期にあたっていたのだと総括できるのだと思います。 50年後のひとびとが「あれは台湾の国産みの時期だった」と口を揃えて言うであろうもの。 対象からあまりに近いところにいる我々は、なかなか正しくつかみきれない。 ≪つまるところ台湾国家の進化過程は、歴史の発展、変動する政治情勢、ダイナミックな国際法の本質と原則に合致するものだ。 台湾はひとつの主権独立国家として進化しつつあるというのが、まさに今日のありさまである。≫ 台湾現代史のすっきりとした切り口を示していただけた気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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