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テーマ:映画から何かがはじまる(564)
カテゴリ:作品レビュー(外国映画)
4日の日記で「善き人のためのソナタ」のラストにおけるヴィースラー
の態度について書いた。 今、思い返せば、「白バラの祈り-ゾフィー・ショル、最期の日々」の 主人公ゾフィーにもこれと同じことが言える。 圧倒的な国家権力に対して、全くの無力な存在ともみえるゾフィーは モーア尋問官の巧みな誘導にも堂々として、むしろ、彼をたじろがせる。 そして裁判所長官ローラント・フライスラーの狂気の裁判にも全く 屈することなく堂々としている。 観客にはモーアやフライスラーが何と卑小な存在に見えることか。 それは彼らが立っているのが国家権力に拠ることしかないからで あろう。それに対してゾフィーが立っているのは自己である。 ヴィースラーとゾフィーの二人から学ぶことは実に多い
最終更新日
2007年05月06日 09時22分26秒
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