秋山巌の小さな美術館 ギャラリー馬美の町田珠実です。
今日のニュースで、自衛隊の落下傘降下の事故の様子・・・輸送機に引っかかったままで降下出来なくなった隊員の映像・・・を見ました。
無事に地上に降りたそうですが、未だに危険なんですね、落下傘降下は・・・。
前回に引き続き、館山海軍砲術学校跡に関して、安房文化遺産フォーラムが発行している「あわ・がいど 1 :戦争遺跡」より、下記、転載します。
この本は、写真入りでとても解りやすく構成されているので、ご興味のある方は是非、入手したください。
以下、転載です。
『館山海軍砲術学校跡』
海軍の学校で陸上戦闘の専門家養成
海軍の学校には、海軍大学、海軍兵学校をはじめ、さまざまな兵種や兵務に関わる海軍独自の学校や養成機関がある。その1つに主に艦船に配備されている兵器の操作技術、つまり海上での砲術を学ぶ学校として横須賀海軍砲術学校があった。
海軍でも陸上戦闘(以下陸戦と略)を行っていたので、横須賀海軍砲術学校がその作戦にあわせた戦闘員の養成をしていた。ただ、この兵種の部隊は必要に応じて臨時編成になる場合が多く、日中戦争でも特別陸戦隊が編成されていた。
陸戦に関わる砲術や訓練の養成機関は、日中戦争の実践の中で必要とされてきたこともあり、また間近に対米英戦が想定されたので、海軍上層部は組織を分けることにした。
1940(昭和15)年、横須賀海軍砲術学校の分校を設立するにあたり問題となったのが、分校に併設する広大な演習場をどこにするかにあった。
太平洋諸島での上陸作戦を実践訓練するにふさわしい自然の砂丘ということや館山航空基地もすぐ近くにあるということで房総半島南端の館山市布良(めら)・相浜(あいのはま)から伊戸(いと)の間にある白砂青松の平砂浦(へいさうら)海岸が、演習場に選ばれたのであった。
翌1941(昭和16)年6月1日、海軍は館山市佐野(さの)の地を選定して、陸上砲術の実地訓練を主たる目的とした館山海軍砲術学校(通称「舘砲」)を開校したのである。
『対米英開戦の先陣「舘砲」パラシュート部隊』
対米英戦の戦術戦略上において、「舘砲」には開校直後から、最高機密の特命をもった特別陸戦対養成が課せられていた。
なかでも対米英開戦直前に関わるセレベス島メナドのランゴアン飛行場と、チモール島クーパン飛行場への奇襲占領作戦を狙った横須賀鎮守府第一特別陸戦隊と横須賀鎮守府第三特別陸戦隊の編成と訓練であった。
この特別陸戦隊は海軍初のパラシュート部隊で、41年9月、全国から隊員にふさわしい体力と気力をもった精鋭たちが集められ1500名の編成が発令された。「舘砲」ではわずか3ヶ月という短期間で特殊任務のパラシュート兵を養成することが命ぜられた。
実地訓練では館山航空基地そのものを敵の飛行場と想定し、狭い航空基地内にパラシュートで正確に降下することが要求された。この猛特訓では降下に失敗し死亡事故もあった。
対米英開戦直前にメナド奇襲作戦は敢行され、多大の犠牲を払って飛行場を制圧し、海軍初のパラシュート部隊による奇襲作戦が成功したのであった。