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小学生に科学を教えながら、自分で疑問に思うんです。
論理的思考は、まだ小学生には無理じゃないかと。 いや、無理というより、じゃまじゃないかと。 というのは、この時期は、まだ、脳ミソは、論理を組み立てるところの建設時期ではなく、感情を育むパートの大事な仕上げの行程だからです。 感情も「学ばなければ」いけないんですよ~。自動的に、感情豊かになるんじゃないんですって。小さいときに豊かな感情に出会っていないと、大きくなってからは、取り返しがつかなくなる危険があります!(絶対じゃないから、「つきにくく」か。) 昨日も書きましたが、論理と感情とどっちが人生において大事か、と天秤で比べたら、(こんなこと、できるわけありませんが)、圧倒的に感情の方だと思います。第一、論理は、感情が下支えしているのです。 アインシュタインだって、ニュートンだって、小柴さんだって、みんな新しい論理を展開するモーターの働きをしたのは、豊かなファンタジーです。ステキな夢を見られることが、科学者の第一条件なんです。決して、論理に強く、批判精神に優れていたんじゃありません。最初に夢ありき、で、それを実現させるために、後から論理がついてきたのです。 吉田寅彦先生も、科学者はアタマが悪くなくてはいけない、と言っています。アタマが良い子は、その批判精神に自分がつぶされてしまうんですね。 だから、私は、小学生には、あくまで楽しみとしての科学、ファンタジーとしての科学に止めておくのがいいんじゃないかと思っています。この世界には、何かとてつもなくステキなものが、いっぱいありそうだ!、いつか探ってやるぞ! 冒険してやるぞ! という気持ちを育てることで十分じゃないかと思うのです。 小学生だって算数してるじゃないか、と言われるかもしれません。 でも、計算が手順どおりできることと、論理的に数学をしていることとは、全く別です。算数の意味を現実に即して理解している子は、ほんの小数です。小学生は、算数もファンタジーとしてカラダにしみ通らせた方が良いのです。 子どもの描く絵を見てください。不器用さもありますが、実は、子どもたちは、あのように世界を見ているのです。決して、大人が見ているようには、世界は見えていないのです。世界自体が違うのです。 そういう子ども達に、大人の論理や批判精神をぶつけることに危惧を覚えるのです。 ☆ ここからは、私の極論です。仮説です。刺激材料として読んでください。 子どもには、どんな批判精神も、どんな裁きの心も教えるべきではないのではないかと思います。それは、本来伸びるべきの、魂の力を殺ぐことになります。 人を批判する心は、必ず、自分を裁く心となって、ブーメランのように、子どもの心を傷つけます。能力さえも、殺いでいると思われます。 子どもの能力を評価することも反対です。それは自分を裁く心を育てます。テストはその子を裁くためのものではなく、教師の指導の道しるべとしてのみ、使うべきです。成績表は、教師の自己評価であるべきで、あと、その子についての親との意見交換記録であるべきです。 人と比べることを、この時期から教えるべきではありません。ただ、人を褒め称えることを教えるべきです。すばらしいこと、目が輝くようなことに、注意を向けさせるべきです。 賛美と崇敬の対象となりうるものを、環境や体験の至る所に探し求めるべきです。 人の弱点を非難せず、愛を持ってその人の長所に心を向けようと努めさせるべきです。 あらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること。そして批判的判断を控えること。 次に、ファンタジーを育てるために、絵本や物語を授業や生活にしっかり組み込むこと。心が大切であることを小さいときから強調しておき、外の刺激に没入することを避けさせる。たとえ、外からイヤなことが迫ってきても、あくまで自分の心は自分が主導権をもつことができるように、自分の世界を育てさせる。 外界の森羅万象に輝きを見いだすということは、実は、自分の内側に、神性を見出すことと同じです。自分の内側のすばらしさに十分気づかせる指導をするべきです。 そして、さらに極論なんですが、大人もこれらをモットーとして生きるべきなんだと思います。強制できる筋合いのものではありませんが、一つのライフスタイルとして、あるんじゃないかと思うのです。私はこれからですが、目指したいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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