テーマ:障害児の親として(1425)
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私は、色盲検査ですぐに引っかかります。
色弱です。最初のページは読めるんですが、次からほとんど読めません。 まわりの人が、「エっ」という顔をするのが、逆に面白く感じるくらいです。 でも、日常生活は、ほとんど不自由していません。信号機もわかりますし、運転免許まで持っています。絵画コンクールにも何度も入選しました。(子どもの頃の栄光だ) ま、こんなもんだろうって、脳が慣れているんですよね。 で、つくづく思うんです。もし、健常な色彩フィルターをもっていたら、どんな風に世界は見えるんだろうって。きっと、いろんな色が踊っていて、私が今、見ているものより何倍も美しいんだろうなあって。 私は、それを想像するだけで、とっても楽しくなります。一瞬に世界がお花畑に変身するんです。私の想像の世界では。 実は、人間の感覚機能は、とっても限られていて、健常者でも、光の波長のほんの一部しか認識できていません。音の波長だってそうです。超音波は聞こえませんが、この世に存在すしているんです。もし、アンテナと同じ感覚機能をもっていて、光と同じ電磁波である、各種電波に反応するフィルターをもっていたら、どんな世界に見えるでしょう。 そうです。人間だれでも、感覚弱者なのです。そして、自分がもつフィルターの網の目をすり抜けるものは、その人にとって「存在しない」ものなのです。 「事実」とは何でしょうか? それは、その人のフィルターにひっかかったものに他なりません。言い換えれば、対象を詳しく観察することは、自分がもっているフィルターの構造をはっきりさせていることでもあるんです。 あの人の言動にイライラするっていうことは、そういうものに反応するフィルターをもっている、ということです。イライラという絶対的真実があるわけではないのです。 そして、一人ひとりでフィルターは、みんな違うのです。そこに誤解や衝突、ストレスが発生します。 私たちは、いつも世界のほんの一部しか見ていないという謙虚さをもたなければなりません。 そして、人生を豊かに生きるとは、自分のフィルターをより豊かなものに、育てていくことに他なりません。 人間同士は、フィルターの違いから、どうしても乗り越えられない壁があります。 これを、自分のフィルターからはみ出してしまうと言う理由で、批判や裁きをすることは、みすみす自分のフィルターをより豊かにするチャンスを神様からもらっているのに、試合放棄をしているようなものです。 理解できないこと、嫌なことに出会ったら、フィルターからはみだしていることに遭遇したサインですので、「ラッキー、神様ありがとう」、と受け取れればいいのです。(これができれば、ね) でも、到底、自分には理解できないと思われても、きっと、これを美しく感じる、または、当然と理解するフィルターがあるんだろうなあ、という一種の「信仰」は、少なくとも持っていたいものです。 「信仰」とまでいかなくとも、人間には「想像」という道具があります。私のように、色を認識できない者でも、極彩色の世界を想像して、うっとりすることができるのです。 ヘレンケラーだって、たぶんそうでしょう。 他人のフィルターを理解するには、できるだけ自分のフィルターを豊かにしておけば有利なことは、間違いありません。 限られたフィルターで、複雑なフィルターを理解は不可能とは言いませんが、とても困難です。 子どものフィルターより、大人のフィルターの方が、複雑で豊かだという前提があるから、親は子どもを理解し、リードできるのです。 しかし、フィルターが豊か過ぎるために、乏しいフィルターの世界を、想像できなくなった大人がいっぱいいます。 それと、偏ったフィルターをもった子を、ノーマルな?フィルターに変更させようとするとき、プッシュ型でいくか、プル型でいくかという選択の問題があります。 勉強嫌いも一つのフィルターですが、フィルターは外圧的に力で変更しようとすると、弊害が出ます。 このフィルター論を中心として、私の知りうる限りのノウハウをこれから展開していきたいと思います。 短時間に書いたので、心配ですが、立派なネット中毒患者の寅さんでした。もう、更正不可能みたいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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