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誰もが感動するヒット曲というのは、存在するんだろうか?
今日の朝ドラでも裕一は、レコード会社を納得させる曲づくりに苦労していましたね。 誰もが納得する素晴らしい音楽というのは「存在する。」というのが古来からの人間のスタンスでした。 それに対し、イギリスの懐疑論者は、「美」も「真」も思い込みに過ぎない、と主張します。 「人間の感覚というのは、すべて経験に基づいており、そして経験なんていうものは、人それぞれなんだから、誰もが共感できる絶対的な音楽なんてものは存在しない」というのです。 日本人にとって、ふるさとの民謡は心を揺さぶられる旋律ですが、もし、文化的に全く違うアフリカの原住民が聞いても同じように心に響くだろうか?というのです。 青森の人と沖縄の人の感覚は違うだろう、と考えます。 そもそも、「ある音楽が美しい」というのは、「私が」そう思うのです。 「美しいものが存在する」という言い方だと、まるで「私」から切り離された、つまり精神から切り離された実体としての美というものが、存在しているように聞こえてしまう。 しかし、私という存在は一体何でしょうか? 「私」はさまざまな知覚の集まりに過ぎない。というのが、イギリスのヒュームを中心とした懐疑論者の主張でした。 つまるところ、「私」とは、あるときは快適で、あるときは痛いといった、次々に現れる知覚(経験)が継続することによって生じている疑似的な感覚に過ぎないのだ、と言うのです。 この考え方を拡張すると、デカルトの「私が明晰に認識するものは確実に存在する」という論理についても異を唱えることになります。 「〇〇を明晰に認識した。○○とはこうものだ」という考えは、すべて経験によって形づくられていることになるわけで、それがホントウに、リアルな現実と一致しているかどうかは何の保証も無いわけです。 さらにヒュームはこの懐疑の眼差しを、ヨーロッパでは決して口に出してはいけないタブーだった「神様」、そして「科学」にまで向けてしまうのです。 たとえば、あれだけ懐疑を徹底していたフランスのデカルトでさえ、神様だけは特別扱いしていたのです。自説の正しさの根拠として「神様」を持ち出しているほどでしたから。 だったら、この世界には、いや宇宙には、絶対的な「美」というものは無いのでしょうか? この懐疑論者の徹底した懐疑をはねのけたのが、ドイツのカントです。 結局、曲のいい悪いというのは人それぞれなんだよね。 つまり、人間の経験が作りだしたものに過ぎないんだ、という話はとても説得力のある話のように聞こえる。 だけど、カントはそこに、こんな疑問を感じたのです。 それならば、どうして、数学や論理学など、多くの人間同士で通じ合える学問が存在しえるんだろうか? もしも、すべての知識や概念が人間の経験に基づくものなのだとしたら、民族によって、文化的な背景によってそれぞれ異なった学問体系があってもいいはずじゃないか? だって、同じ経験をしてきている人間なんて、そうそういないはずだから。 でも、実際には、全く違った経験をしてきている人間同士でも、時間をかければ必ず同じ結論にいたる学問というものがいくつも存在するわけです。例えば、幾何学や論理学など。 カントはそこに、ヒュームの懐疑論を乗り越える鍵があると考えたのです。 ヒュームの懐疑論が、「人間の概念は、すべて経験に基づいており、そして経験なんて人それぞれなんだから、人類で、共有できる絶対的な概念なんてありえない」と主張したのに対して、 カントは、「いや、そんなことはない。経験の内容は人それぞれだが、経験の受け取り方には、人類共通の一定の形式がある。それはすなわち、その共通の形式に基づく範囲内では、みんなが『そうだね』と合意できる概念がつくり出せるということだ。」 と、つまり、人間にとっての真理を主張したのです。 人類にとっての共通の「美」は存在するというわけです。 しかし、昨日、北アルプスの絶景をテレビの画面で観ました。 その後、北極圏の絶景が映し出されました。 同じ絶景でも、全く違うものです。 これらの自然に囲まれて育った人の音楽と、別の環境で育った人の音楽では、 そりゃ、違うわなあ、と納得しました。 音楽は数学に似ていると言いますが、数学の定理を導きだすみたいに、最高の音楽の公式というのは、あまりにも変数の幅が大き過ぎて人類の手には余ると思った次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.05.12 09:05:34
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