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楽天・日記 by はやし浩司

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2006年11月15日
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カテゴリ:カテゴリ未分類

●夫婦の不倫

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夫や妻の不倫は、配偶者をキズつける。
それは当然だが、問題は、なぜ、
夫や妻というより、人は、不倫をするか。

人というのは、もともと、そういう
生き物なのか。

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 性欲には、ものすごいパワーがある。それをあのフロイトは、「イド」という言葉を使って説明した。性欲そのものが、生命力の源泉になっていると言っても過言ではない。

 で、問題は、その性欲を、人は、コントロールできるかということ。あるいはコントロールするためには、どうすればよいかということ。

 結論から先に言えば、性欲を、知性や理性でコントロールすることは不可能ということ。もしそんなことができるとしたら、人は、とっくの昔に絶滅していたはず。

 ノーベル文学賞をとったような、あの作家にしても、80歳をすぎた晩年になって、10代の若い女性に恋をしている。人間国宝にまでなった歌舞伎俳優にしても、やはり10代の愛人をかこって、話題になったこともある。

 学校の教師によるハレンチ事件など、いまどき珍しくも何ともない。大学の教授ですら、セクハラで、つぎつぎと職を失っている。

 なぜ、そうなのか?

 そもそも、性欲を司(つかさど)る脳みそと、それをコントロールする脳みそは、別の場所にある。わかりやすく言えば、性欲を司る脳みそは、脳みその中心部にどっかりと腰をおろしている。しかしそれをコントロールする脳みそは、前頭前野、つまり額の部分に、限られている。

 それは、たとえて言うなら、性欲という像を、細い紐でコントロールしているようなもの。

 そこで重要なのは、倫理であり、道徳ということになる。しかしそれにも、限界がある。では、どうすればよいのか。

 私は、ここまでくると、もう2つの方法しかないと思う。

 ひとつは、宗教で、その人をしばるということ。もうひとつは、一夫一妻制そのものを、一度、疑ってみるということ。とくに現代社会のように、夫婦といってもたがいの接触時間の少なくなってしまった今は、そうである。夫は、毎日午前様。妻は夫の帰りを待つだけ。朝は朝で、会話といっても、朝食のひとときだけ。

 そういう夫婦が、夫婦であること自体、おかしい。無理がある。

 が、だからといって、不倫を容認しているわけではない。不倫は、そのまま背信につながる。では、どう考えたらよいのか。

 世の中には、いろいろな夫婦がいる。あまり表には出てこないが、毎週のようにスワッピングを楽しんでいる夫婦がいる。自分たちのセックスの様子を、見せあっている夫婦もいる。さらには、混浴の会というのもある。日本版のヌーディストクラブのようなものである。

 「どうしても不倫したい」ということなら、夫婦で話しあって、そういう会を利用するのも、よいのではないか。ことセックスについていうなら、セックスそのものには、大きな意味はない。食欲から生ずる食事のようなもの。便の排泄のようなもの。

 現にオーストラリアには、家族ぐるみのヌーディストクラブが、あちこちにある。(家族ぐるみ、だぞ!)ときどき友人が、自分が属するクラブの写真を送ってきてくれるが、その中には、子どもはもちろん、10代、20代の息子や娘も、いっしょに写っている。実にあっけらかんとしていて、いやらしさがまるでない。

 割り切ることができるなら、そこまで、割り切ればよい。

 それを「浮気だ」「不倫だ」と、おおげさに構えるから、ことがおかしくなる。「背徳だ」「背信だ」と、おおげさに考えるから、ことがおかしくなる。

 たしかに夫婦にも、倦怠期というのがある。食事にたとえるのも不謹慎なことかもしれないが、毎日、毎晩、同じ料理では、食べるほうも、あきるだろう。そういうふうに思う人がいたとしても、おかしくない。

 ただこの点については、「男」と「女」は、基本的に、考え方がちがうところがある。……と考えられていた。しかし、このところ、どうやらそれもあやしくなってきた。たとえば高校生についてみるなら、セックスの体験率だけをみても、今では、男女ともに、差が、ほとんどなくなってきている。

 つまり男も、女も、「性」を、厳粛なものから、楽しむものへと、意識を変えつつある。

 もっとも、この意識には、個人差がある。セックスを、便の排泄と同じように考える人もいれば、夫婦の絆(きずな)の中心に置く人もいる。人それぞれだが、夫婦の間で、その意識がちがったとき、多くのばあい、それはそのまま家庭騒動につながる。とくに日本のばあい、「性」、なかんずく「セックス」に対して、根強い偏見が残っている。

 もう30年以上も前の話だが、スウェーデンの性教育協会の会長の、E・ベッテルグレン女史の通訳として、日本中を回ったことがある。そのベッテルグレン女史が、こんな話をしてくれた。

 スェーデンの大学では、セックスの実技を、講座として、みなの前でしてみせている、と。

 教官が、「A男さん、B子さん、前に出てきて、セックスをしてみせてください」と。教室の前には、マットが敷いてある。

 それに応じて、A男とB女が、みなの前で素っ裸になって、そのマットの上で、セックスをしてみせる。教官は、それを見ながら、「ここは、もっと、こうするといい」「こうすると、相手がもっと喜ぶ」と指導している、と。

 日本人には信じられないような話かもしれないが、実は、当時の私にも、信じられなかった。しかし、それは事実だった。その講義を撮影したスライドも、見せてみらったことがある。

 「裸」、それに「セックス」に対する考え方、そのものがちがう。たとえば北欧の国々では、サウナ風呂にしても、老若男女の区別はない。ないものは、ないのであって、それ以上の言い方ができない。みなが、素っ裸で、混浴を日常的に楽しんでいる。

 「不倫」という問題も、その上で考えなければならない。言いかえると、こう考えていくと、何が不倫で、何が不倫でないか、わからなくなってくる。要するに、それぞれの夫婦が、それぞれの自覚と責任をもって行動すればよいということ。遠慮する必要もないし、それが道徳的でないとか、倫理的でないとか、そんなふうに考える必要もない。

 ちなみに私は、ワイフに、「お前は不倫をしたことがあるか?」と聞いたことがない。聞いても、どうせ本当のことは言わないだろう。同じように、ワイフも私に聞かない。聞かないから、そういった質問に答えたことがない。

 もちろん、そこに「心」が入ってくれば、話は別である。それについては、また別の機会に考えることにするが、「心」がはいってくると、夫婦の基盤そのものが、危機的な状況に追いこまれる。それは警戒したほうがよい。







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最終更新日  2006年11月15日 11時10分51秒



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