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楽天・日記 by はやし浩司

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2006年12月07日
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カテゴリ:育児問題


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●KJさんへ 

 このKJさんのメールに話をもどす。一つ気になるのは、KJさん自身の視点の中に、子どもがいないこと。親意識が強すぎるというか、子どもの友として、子どもの横をいっしょに歩くという姿勢が、あまり感じられない(失礼!)。KJさん自身も、「その間、親として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである」と書いている。

 この時点で忘れてはいけないことは、すでに子どもは、「学校」という大きなワクにしばられているということ。その上、その学校の外で、ギューギューとしぼられたらたまらない。これはたとえて言うなら、会社員が仕事の外で、また別の仕事をもつようなもの。私が先に書いた、「たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか」という意味は、ここにある。将来、Jリーグへと思うなら話は別だが、そうでなければ、クラブはクラブとして、楽しめばよい。才能のある子どもは、そういう状態でも伸びるし、ない子どもは、いくらしぼっても、伸びない。こんな話もある。

 数か月前に、あるテレビ局が、アメリカのあるリトルリーグ(少年野球クラブ)を取材していた。そのリトルリーグは、どこで試合しても、負けるだけ。勝ったためしがない。しかし監督も、コーチも、選手も、そして親も、いっこうに気にしていない。それもそのはず。そのクラブのメンバーは、身体のどこかに障害をもった子どもたちばかりである。しかも監督は、障害がひどくて、自信をなくし始めたような子どもほど、選手として前に出す。そしてその子どもが、たまにヒットらしきものを打つと、みんなが小躍りして喜ぶ。相手のチームの監督も、コーチも、そして選手たちも、小躍りして、いっしょに喜ぶ。どうして日本よ、どうして日本人よ、こうしたやさしさをもてない! どうしてもたないのか! バカヤロー!

 結局、その違いがどこからくるかと言えば、まさに生きザマの違いということになる。結果を重要視する日本人。プロセスや中身を大切にする欧米人。この違いは大きい。そしてそれが、長野県の松本市という小さな町にまで、影響している。U男君のプレーを見た、ほかの父母について、KJさんは、つぎのように書いている。

「心無い父母の声、『何?なんであんなにバタバタ倒れるの。しばらく練習してないから? もう、疲れちゃってるみたいね! なんであんなとこパス出してるの? なんだ、一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは見えにくい)』と。さらに『あの陰の監督に黙って彼をだしちゃっていいの? 知らないよー』と。(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんといわれていたらしい。)」と。

 U男君のプレーをみながら、ほかの親たちは、笑うどころか、「陰の監督に内緒で出していいの?」と言ったというのだ。監督だけではない。それを見守る親たちも。「勝つこと」イコール、結果しか考えていない。が、最後にKJさんは、こう結んでいる。

 「心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。今は、U男の心の声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。今日、『ただいまー』と帰り、『陸上、かなり疲れたヨ!』と言うU男に、『大変だったね!ゆっくり休むといいよ!』と自然に答える事が出来た」と。

 おめでとう! KJさん。あなたはすばらしいお母さんになりましたね。おめでとう!
(02-11-8)

● 教育のレベルは、いかに弱者にやさしい教育かで決まる。またそういう視点をふみはずして、教育のレベルを語ることはできない。

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【日本人の結果主義】

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日本人は、どうして結果ばかり追い求めるのか。
ビジネスの世界では、それはそれでしかたのないことかも
しれないが、こと子育ての場では、大切なのは
結果ではなく、そこに至るプロセス。

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●結果主義

 あの世があるという前提で生きると、死に際は、まさにあの世への入り口ということになる。チベット密教で、死に際の様子を重視するのは、こういうところに理由がある。そのため、チベット密教の流れをくむ日本の仏教では、たとえばキリスト教を批判するとき、決まってもちだすのが、キリストの十字架への張りつけである。「キリストは、最期はあのような、無惨な死に方をした。それがキリスト教はまちがっているという証拠だ」と。私も学生のころ、地元の寺の僧侶に、そう聞かされたことがある。

 どちらが正しいかということを、ここで論じても意味がない。また私には、それを判断する力はない。しかしこうした大乗仏教的な思想、つまり結果主義は、私たちの生活のあらゆる部分に影響を与えている。もちろん教育にも、そして子育てにも、である。

●ある母親の例

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「すべてがムダでした」と。「いろいろな教室に通わせました。家庭教師もつけました。高額な教材も買いました。しかしムダでした」と。親がこうした心境になる背景には、ここに書いたような、結果主義がある。ほかにも、例がある。その一つが、「産んでもらいました」「育ててもらいました」という、日本人独特の、「もらいました」論である。少し飛躍した感じがしないでもないが、こういうことだ。

 「今、私がいるのは、親に産んでもらい、育ててもらったからだ」と言う人がいる。日本人にはたいへんなじみのある言い方で、大半の人は、「そのとおり」と思っている。しかしこの考え方は、あくまでも結果論にもとづいた考え方でしかない。実のところ、私も子どものときから、いつも父や母に、そう言われて育った。「お前を、産んでやった」「育ててやった」と。耳にタコができるほど、そう聞かされた。で、ある日、こう反発した。私が中学生くらいのときではなかったかと思う。「いつ産んでくれと、頼んだ!」と。それを言うと、母は激怒して、「親に向かって、何てこと言う!」と、私に大声で叫んだ。

 そこで親は、子どもを育てる過程でも、「教室へかよわせてやった」「家庭教師をつけてやった」「高額な教材を買ってやった」と考える。実際、私なども、ことあるごとに、親に「お前には、学費で、○百万円もかけたからな」と言われた。この段階で、子どもも、「教室へ通わさせてもらいました」「家庭教師とつけてもらいました」「高額な教材を買ってもらいました」と思えば、たがいの関係は、うまくいく。しかし今の子どもたちはそうは、思わない。その思わないところから、断絶が始まる。話が脱線したが、親子の断絶にも、この結果主義が関係している。

 もともと子どもをもうけるかもうけないかを決めるのは、親の意思ではないのか。しかも子どもをつくるといっても、私たちが直接組み立てるわけではない。男の立場でいうなら、セックスをして、射精すれば、それでこと足りる。少なくとも、私はそれ以上のことはしなかった。女の立場でも、妊娠中はたしかに苦しいが、しかしそれとて生まれてくる子どもに頼まれたからそうしているのではなく、むしろ生まれてくる子どもが楽しみだから、そうしている。子どもは、まさに夫婦の愛の結晶ということになる。

 それがあるときから、一転して、親は、子どもに向かって、「産んでやった」という。この親の変化は、いつどのようにして生まれるのか。いや、もしその女性が、いやいや、それこそあと継ぎか何かのために、不本意ながら子どもをもうけたというのであれば、こうした考え方もあるかもしれない。しかしそうでなければ、つまり望んで、自分の意思で子どもをもうければ、もともとこういう発想は生まれない。子どもが生まれてきたことについて、「ありがとう」と言うことはあっても、「産んでやった」とは、決して思わない。

●親がいるから子どもがいる

 そこでさらに考えを推し進めていくと、この問題は、「親がいるから子どもがいる」という考え方と、「生まれてみたら、親がいた」という考え方の、どちらかに集約されるのがわかる。親の立場から、一方的に子どもを、「自分のモノ」と見る考え方と、子どもの側から見て、子どもの世界を中心に、親を認識するという考え方といってもよい。日本では伝統的に、前者の考え方をする。で、こうした考え方も、つまるところ、結果主義的な見方ということもできる。さらに念をおすと、こういうことになる。

 親がいるから、子どもがいる。だから子どもにとって、親は絶対。そういう意味で子どもは、服従的であればあるほど、できのよい子どもということになる。日本独得の親孝行論も、こういう流れの中で生まれた。美化された。つまりこの時点で、「子どもがいる」のは、「親のおかげ」、つまり「親がいる結果、子どもがいる」と考える。そして自分自身も、先祖がいるから、その結果、自分もいると考える。このタイプの人が、好んで、「先祖、先祖」と言うのは、そのためである。

 こうして日本人の結果主義は、ありとあらゆる部分に入り込んでいる。そしてそれが日本の社会をつくるバックボーン(背骨)になっている。で、あなたはどうか。簡単なテストをしてみよう。

(A派)
● 子どもは親に服従的であるべき。親に向かって、「バカ!」などと言うことは許さない。
● 先祖があっての私。その私あっての子ども。先祖を敬うのは、家庭生活の基本。
● 親孝行は家庭教育の要。親は、デンとした威厳があることこそ、大切。

(B派)
○ 子どもといっても、未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけば、対等の人間。
○ 子どもは子どもで、自分の納得する人生を、自分なりに思う存分、羽ばたけばよい。
○ 親子でも尊敬しあう関係こそ、理想的。たがいに大切にするという姿勢があればよい。

 さてあなたはA派に近いだろうか、それともB派に近いだろうか。それを少しだけ、自問してみてほしい。
(02-11-8)

(注意)私のマガジンを読む人で、A派の人はほとんどいないと思う。マガジンというのはそういうもので、フィーリングが合わなければ容赦なく、解約される。だからこのマガジンを読む人は、私のフィーリング、つまりB派だと思う。しかしこの問題は、生きザマの根幹にかかわる問題だから、頭からA派ならA派を否定すると、それこそたいへんなことになる。たとえば先祖を大切にしている人に向かって、その先祖を否定すると、それはそのままその人自身を否定することになる。じゅうぶん注意してほしい。

 私のばあい、周囲にA派の人はいくらでもいるが、そういう人だとわかった段階で、その人に合わせるようにしている。この問題は、ここにも書いたように、生きザマの根幹にかかわる問題だから、多少争ったところで、それでどうにかなる問題ではない。相手を説得できるということもない。大切なことは、相手の考え方を認め、そして相手の立場で、ものを考えてやること。A派の人もB派の人も、仲よく共存すること。それが大切である。





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最終更新日  2006年12月07日 09時30分34秒
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