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カテゴリ:日々の随筆
●今朝・あれこれ(日曜日)
++++++++++++++++++ 今朝は、久しぶりに朝風呂。 パジャマのまま、浴槽に湯を張る。 いっぱいになったのを見届け、 裸になって飛び込む。 そしていつも、この歌を口ずさむ。 「♪オッハラ、ショウスケさん、 なぜ、シンショウ、つぶした……」と。 私も、あぶない! そのうち、自己破産 ということになるかも……。 ++++++++++++++++++ 起きたときはドシャブリ。しかし風呂から出ると、青い空。どうやらたった今、前線が通過したらしい。 言い忘れたが、結婚して以来、風呂はいつも、ワイフといっしょに入っている。それが習慣になっているから、どうということはない。それに今は、ジジイとババア。長いときは、浴槽につかったまま、1時間以上も、話をしている。今朝もそうだった。 とりとめのない長話。意味のない長話。世間話にウワサ。 今、その風呂から出て、こうして居間のパソコンで、雑文を書く。どうしようもない雑文。ワイフは、うしろで、朝食の用意。その音だけが、うしろから聞こえてくる。そうそう今朝も、母に起こされた。時計を見ると、7時少し前。ちょうど起きるころだったので、そのまま起きた。 母を見ていると、自分たちの老後がどうあるべきか、それがよくわかる。しかし計画どおりいくものか? 頭がボケると、すべての計画が狂ってくる。ボケには、注意したい。 この2日間、私とワイフの間は、一触即発。険悪なムードが漂っていた。きっかけは、たわいもないことだが、ワイフが、すなおに自分のまちがいを認めなかった。それで言い争いになった。 で、いつもそうなのだが、喧嘩になると、「離婚してやる!」「私も、あなたなんかと結婚するつもりはなかった!」「オレだって、なかった!」となる。あとはお決まりの無視。無言。 が、やがてそれも限界に近づいてくる。そして「いっしょにDVDでも見るか?」となる。そんなわけで昨夜は、ニコラス・ケイジの『ロード・オブ・ウォー』を見た。武器商人のDVDだった。 なお夫婦喧嘩というのは、(1)安定期→(2)倦怠(けんたい)期→(3)緊張期→(4)爆発期→(5)反省期→(1)安定期……というサイクルを繰りかえす。密着度の濃い夫婦ほど、このサイクルが顕著に現れる。 ともかくも、今朝は、安定期。朝食のおかずも、昨日より、2~3品ふえていた。(おとといは、カップヌードル一個だったぞ!) 軽い頭痛があるのは、花粉症のせい? あの花粉症からは解放されたが、それでもその季節になると、1週間ほどは、花粉症まがいの症状が現れる。断続的なクシャミは、先週あたりからつづいている。もうそろそろ花粉症による症状は消えるころなのだが……。 ●人生 ++++++++++++++++++ 今日1日、できることをやる。 やるべきことをやる。それを懸命にやる。 それでよい。 明日は必ず、やってくる。 明日は明日で、そのとき、またその日の ことを考えればよい。 ++++++++++++++++++ ぜいたくな望みかもしれないが、私は、死ぬときは、心筋梗塞で死にたい。その瞬間には、気を失うほど痛いそうだが、一瞬で終わる。いろいろな病気を想定するが、やはり心筋梗塞がいちばん、よい。 数年前のこと。どこかの中学校で、講演会場に向かっているとき、突然、胸がギーンと締めつけられるような痛みを感じた。今から思うと、あれは、狭心症によるものだったと思う。 以後、その症状はないが、私の父方の家系は、心筋梗塞で死ぬ人が多い。一方、母方は、脳梗塞か脳内出血。がんで死ぬ人は、ほとんど、いない。だから確率としては、心筋梗塞ということになる。 で、ときどき、こう思う。そのときがきたら、いさぎよく死のう、と。ジタバタしない。延命措置など、してほしくない。できれば安楽死させてほしい。そのときは、オーストラリアの友人(ドクター)が、「パxxxxxx」という薬を送ってくれることになっている。「パラダイス」をもじった薬の名前である。 オーストラリアでは違法だが、秘密裏に利用している人は多いらしい。パラダイスにいるような気分で、眠るようにして死ぬことができるという。 ともかくも、運命は受けいれる。もちろん、ふんばることができる部分については、ふんばる。ふんばるからこそ、そこから生きることのドラマが生まれる。そのドラマが、人の世界を、潤い豊かで、楽しいものにする。 私も、その運命に身を任す年齢になってきた。 ●能・不能 ++++++++++++++++++ 人には、能・不能がある。 自分の能を見極め、それに静かに従えば、 能力を発揮することができる。 成功を収めることができる。 しかしその能もないのに、高望みしても、 はじまらない。 「できない」「なれない」と 嘆いても、しかたない。 ++++++++++++++++++ 人には、能・不能がある。自分の能を見極め、それに従えば、能力を発揮することができる。成功を収めることができる。 しかしその能もないのに、高望みをしても、始まらない。「できない」「なれない」と嘆いても、しかたない。 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。たとえば子どものもつ能力というのは、けっして、平等ではない。小学3、4年生を境にして、それがはっきりとわかるようになる。親は、「何とかS中学校へ入れたい」と言うが、その段階で、「無理だろうな」と思うことは、しばしばある。 しかし親にそれを告げることはできない。また説明したところで、わかってはもらえない。ほとんどの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思いこんでいる。「できないのは、やらないから」と。 自分の能・不能を知ることはむずかしい。いわんや、自分の子どもの能・不能を知ることは、さらにむずかしい。それができるのは、たくさんの子どもを、長い間教えてきたというキャリアのある人だけである。親にそれができないは、当然といえば、当然。しかたのないこと。 で、結局、私の仕事は、親に夢と希望をもたせながら、子どもを前向きにひっぱっていくことでしかない。その過程で、やがて親は子どもの能・不能を知る。この段階で、無理をすれば、それなりの学校には入るだろうが、しかし、あとがつづかない。いつだったか、『のびたバネは、必ず縮む』という格言を考えたが、それとて、キャリアのある人にしかわからない。 はっきり言えば、無理に不相応な学校に子どもを押しこんでも、苦しむのは子ども自身ということ。 しかしここが教育のおもしろいところだが、能・不能といっても、個性差はある。個人差ではない。個性差である。 勉強はだめでも、スポーツが得意とか、そういう個性によるちがいはある。だから勉強がだめだからといって、すべてがだめというわけではない。その個性差を認め、その中から能力を引き出していく。それが、教育ということになる。どうか、誤解のないように。 ++++++++++++ これからワイフと買い物に行ってきます。+では、みなさん、おはようございます。 (07年2月18日記) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年02月18日 09時36分09秒
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