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楽天・日記 by はやし浩司

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2007年08月22日
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カテゴリ:生きザマの問題
●墓、一考

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●千の風(A thousands winds)

Do not stand at my grave and weep.
I am not there, I do not sleep.
I am a thousands winds that blows.
I am the diamaond glints on snow
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning hush,
I am the swift uplifting rush of quiet incircled flight,
I am the soft star that shines at night
Do not stand at my grave and cry
I am not there, I do not die

「千の風」について、訳はいろいろあるようだ。今ヒットしている、歌の歌詞もそのひとつ。しかし講談社版には、「転載、絶対不許可。転載するときは、許可を求めろ」とあるので、私は、原文(英文・作者不明)を、自分で翻訳してみるしかない。

♪墓の前に立って、嘆かないでください。
私は、そこにはいません。私は眠ってはいません。
私は千の風。
私は雪の上の白い輝き。
私は緑の畑で輝く太陽の光。
私は秋のやさしい雨。
静かな朝、あなたがめざめたとき、
私は円を描いて空に登る上昇気流。
私は夜、やさしく輝く星の光。
私の墓の前に立って、泣かないでください。
私はそこにはいません。私は死んではいません。
(はやし浩司・訳)

 訳は、それぞれの人が、自分でつけてみたらよい。内容からして、もともとは賛美歌の歌詞ではないかと思う。思うだけで、根拠はない。しかしすてきな詩でであることには、まちがいない。冒頭の、「♪墓の前に立って、嘆かないでください。私は、そこにはいません。私は死んではいません」という一文だけで、私は電撃に打たれたかのようなショックを受けた。

 「墓」については、いろいろ言いたいことはある。で、私とワイフの出した結論は、こうだ。

(1) 墓は作らない。葬式にかわる「お別れ会」をする。僧侶による読経などは、不要。
(2) どちらかが先に死んだら、残ったほうが死ぬまで遺骨を、預かる。
(3) 両方とも死んだら、2人の遺骨の処理は、息子たちに任す。
(4) 散骨するのもよし、海に捨てるのもよし。はたまた花壇の肥料にするのも、よし。
(5) 私たちの心は、永遠に生きる。私たちは、死なない。あんな狭い墓石の中に閉じこめられるのだけは、ごめん!
(6) だれかが私たちに会いたくなったら、私たちが書いた文を読んだり、絵を見てほしい。

 まあ、風になるというのも、今まで考えたことがないので、実感がわかない。あえて言うなら、私は死んだら鳥になりたい。(チベット密教では、鳥になるというのは、地獄へ堕ちるのと同じことだそうだ。)

しかしもし私が、「私は死んだら鳥になる。鳥になって空を飛ぶ。私に会いたくなったら、空を飛ぶ鳥を見てほしい」と書いたら、だれも空の鳥を見なくなるだろう。

 ……どうしてみな、こうまで墓や墓石にこだわるのだろう? 私の友人の中には、すでに墓地を購入した人たちが、何人かいる。(まだ60歳だぞ!)そういう人にはそういう人なりの、(思い)や(哲学)があるから、そうするのだろう。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておいてやることこそ、大切。何も私が正しいというわけではない。

 ただ私は、どういうわけか、墓や墓石には、ほとんどといってこだわりを覚えない。イタリアやスペインへ行くと、廟(びょう)と言っても、小さな家ほどもある墓の中に、遺体や遺骨を納めるところが多い。

 アメリカやオーストラリアへ行くと、墓といっても、地面に置かれた小さなプレートだけ。遺灰はその周辺のバラ畑にまくところが多い。同じキリスト教といっても、墓や墓石に対する考え方は、宗派によって、みな、ちがう。

 その墓には、2つの意味がある。ひとつは、あとに残されたものたちの心の支えになるという意味。もうひとつは、死者をていねいに弔(とむら)うことによって、今、生きている私たちの(生命)を大切にするという意味。死者を粗末に扱うということは、とりもなおさず、私たち自身の命を粗末に扱うことを意味する。

 ……しかし、こんなすばらしい詩を読みながら、どうして私が書く文章は、こうまで現実的、かつ、味気なくなるのだろうか。これは私自身の情緒的な欠陥が理由になっているのかもしれない。

 ここはあまり深く考えないで、しばらくこの詩のすばらしさに、心を浸(ひた)すことにしよう。……しかし、それにしても、すばらしい妻ではないか。(たぶんこの詩を書いたのは、女性で、自分が先立つことで、夫や子どもたちをさみしがらせないよう、この詩を残したのだと思うが……。)

 私のワイフなら、ぜったいに、こういう詩は書かないぞ。書くとしても、こうだ。

 「♪私が死んでも、嘆かなくていい。あなたはあなたで、すてきな女性をまた見つけて、勝手にやって。私もそうするから」と。

 それで気がついた。女性はともかくも、この詩を読んで涙を流すような男性(夫)がいたら、マザコンタイプの男性と判断していいのではないか!


(補記)

 日本の仏教にしても、釈迦仏教をルーツにしながらも、そこへインド、アフガニスタン、チベット、それに中国などにもとからあった土着宗教が、混在してしまった。「原型をとどめないほどまで、混在してしまった」と書いても、過言ではない。

 たとえば「盆供養」という祭事にしても、もとはといえば、アフガニスタンにあった、「ウラバン」(中国名、盂蘭盆)という祭事がルーツになっている。それが中国で、盂蘭盆会(え)になった。釈迦の時代に、インドであったわけではない。それが中国に入り、それ以前から中国にあった、「中元」という祭事と合体して、今の日本に伝わった。

 だからといって、私は何も、「盆供養」を否定しているわけではない。誤解がないように!

 ただ、何も考えず、過去をそのまま踏襲するというのは、賢い人間のすることではない。とくにこの問題は自分の生き様に関することである。一度は、自分で調べて、自分で結論を出すべきではないか。

 その上で、「それでも盆供養をする」というのなら、それはそれでよし。その人の勝手。しかし一方で、「そういうものは意味がない」という人がいても、どうか、そういう人たちを否定しないでほしい。


 






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最終更新日  2007年08月22日 21時40分22秒
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