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カテゴリ:育児問題
● 敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?) 子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、 「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と 娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい る。 さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言 っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間 に牛乳が腐ってしまう」と。 話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、 「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。 が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、 『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上 下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、 平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日 本を一歩外へ出た外国では、通用しない。 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。 仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会いできる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多いのは、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも喜んでばかりはおられない。 また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使うから相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにもならない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしそのほうが互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大 切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋 の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の 常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英 語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。 私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」) (補記) 日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろいろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているかも」「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方ができるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者たちの間で、話題になったり、問題になったりするのでは? ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言ってきたのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その女性の年齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。しかし内容は、支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思い、電話で返事をすることにした。 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と言うだけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今でもよくわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれない。 (はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年09月25日 07時50分42秒
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