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楽天・日記 by はやし浩司

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2007年12月10日
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カテゴリ:日々の随筆
●がんばる(“Ganbaru”, bear to fight)

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私の英語力のなさを暴露するようで、
心恥ずかしいが、「がんばる」というのは、
英語で、何と書くか?

What do they say to mean “Ganbaru” in English?
With the knowledge of my poor English, I suppose
“bear to fight” would be the most adequate one.

「Bear to Fight(戦うために耐える)」という
言葉が、まっさきに頭に浮かんだ。

辞書などをひくと、「Do one’s Best(最善を尽くす)」
とかあるのだろう。が、それでは、ニュアンスが
合わない。

When you refer to (Jaoanese-English dictionary), you may find words, “do one’s best”.
But it doesn’t fit what I am now. I have been bearing to fight agaist my age.
I like these words and

少なくとも、今の私の心境には、合わない。
やはり、「Bear to Fight」がよい。私は、今日も
がんばった。

昨日も、2時間、歩いた。今朝は、自転車で佐鳴湖を
1周。距離にすれば、6~7キロくらいか?

そして街へ行くときも、途中でバスをおり、30分
ほど、歩いた。

I bear to fight against my age!
(年齢と戦うため、私は耐える!)

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 健康というのは、ガラス箱のようなもの。壊れるときは、簡単に、壊れる。友人のK君(満55歳)は、ほとんど毎朝、ジョギングをしていた。が、先日会ったときに聞くと、糖尿病を患っているとか。健康に注意している人でも、そうなる。

 子育てが終わると、そこにあるのは、老後。老後が、ドカッとやってくる。平均寿命からすると、私はまだ、あと25、6年は生きなければならない。若い人にたとえるなら、満20歳から、満45、6歳前後までということになる。長い!

 しかしこのところ、健康に自信がなくなってきた。疲れやすい。疲れが取れない。風邪が長引く、などなど。集中力や気力も、衰えてきた。ときどき、「こんなことで、80歳まで生きられるだろうか」と心配になる。

 「健康寿命」という言葉がある。平均寿命から10年ほどを引いた年齢をいう。つまり最後の10年は、病気との闘いということになる。そして死ぬ。

 だから戦うために耐える。つまり、がんばる。

 2008年の1月からは、週3回、佐鳴湖の周囲を走る。すでにプログラムに組み込んだ。実行に移しつつある。

 しかしほんとうの問題は、どう長生きするかではなく、なぜ生きるか、だ。「だからそれがどうしたの?」という解答のないまま、長生きしても、意味はない。

 それについては、また別の機会に考えてみたい。

 Let’s bear to fight!


●子育て論

I have not written much about education at home these days.
I have written so much about them in the past and I feel dull or have been boring to
Write about it.

I have some themes about which I’d like to write but I feel less confidence in me.
So may be the readers、too!

+++++++++++++++++++

このところ、子育て論をほとんど、書いていない。
「飽きた」というより、「書き尽くした」。

書きたいテーマは、いくつかあるが、どうも
うまく、まとまらない。自信がない。

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●信仰(Belieifs)

In Japan, we have different types of Gods. Some worship foxes and others worship snakes. The other day I happened to see a news program on TV, in which they reported “Daikoku-sama”. It is the God of money.

My mother used to be a very earnest believer in several Gods. She, however, has stopped believing in them anymore. So one day I asked her the reason why, but she only said, “no more for something” or “I have nothing to say”.

By the way when we depart from someone, there are roughly four stages.

(1) speaking ill of each other
(2) quarrelling or arguing
(3) ignoring or indifferent to each other
(4) rejection

When we say something like this, “I have nothing to say anymore”, it means they are on the (4) stage. This theory can be applied to a couple, friends, relatives and families.

She was on the (4) stage and she stopped in believing in her Gods.

My wife and I have talked about my mother a lot.

“There’s a big difference between religion and beliefs.”, said I.
“Religion has its own philosophy, but beliefs don’t.”,said my wife.
“What my mother did is just to believe in Gods who brings her profits”
“Most of the Gods in Japan are like that, I think.”

“Then what shall we do with the new year’s first visit to shrine?”
“I hate the crowdies of people.”
“So what shall we do? Shall we go to a shrine before the new year’s days?”
“That is one of the ideas.”

 「信仰」と言えるものなのか、どうか、わからない。わからないが、年末になると、全国のあちこちで、「・・・祭」というものが、開かれる。数日前は、大黒様を祭った、「大黒様祭」というのが、どこかであった。テレビのニュース番組の中で、紹介されていた。

 で、話はそれるが、私の母の話になるが、実は、私の母は、たいへん信心深い人だった。(「信仰」というよりは、「信心」。「信心」というよりは、「迷信」?)店先には、神棚と稲荷様がまつってあった。通路の奥には、大黒様がまつってあった。もちろん、仏壇もあった。

 毎年、毎月、母は、同じことを繰り返した。祖父母、親類の人たちの命日には、毎月(毎年ではないぞ。毎月だぞ!)、墓参りもしていた。

 その母が、今は、まったく信仰していない。信仰のカケラも、感じさせない。現在の特別擁護老人ホームへ入る前、私の家に6か月、寝泊りしたが、その気配すら、なかった。そんな母を見ながら、私とワイフは、よく「あの母が・・・」と、顔を見合わせた。

 で、ときどき、私は、母に聞いた。「仏様に参らなくてもいいのか?」と。すると母は、決まって、こう言った。「いまさら、もうええ」「拝んでも、無駄や」と。

 母には母なりの思いがあって、そう言ったのだろう。

 ところで(別れ話)には、段階がある。

(第一段階)・・・グチ、悪口(グチをこぼす)
(第二段階)・・・喧嘩、口論(言い争う)
(第三段階)・・・無口、無視(たがいの間から会話が消える)
(第四段階)・・・拒絶、拒否(関係を拒否する)

 第一段階から、第三段階までの間なら、まだ元(もと)に戻る可能性がある。夫婦でも、親子でも、また職場での人間関係も、みな、同じ。

 しかし第四段階へ進むと、もう、あと戻りできない。修復、不能。夫婦なら、離婚。親子なら、絶縁。会社なら、退職となる。「もう何を話しても無駄」という状態が、第四段階ということになる。

 母が信仰をしなくなったのは、母なりに、この第四段階にまで進んでしまったためではないか。「神様や仏様と話しても、無駄」と。

 が、信仰というのは、心でするもの。もとを正せば、「心の問題」。信仰をやめるということは、(自分自身との決別)、もしくは、(自分自身の否定)ということになる(?) 「今まで熱心にしてきたことが、無駄であった」と知らされることは、自己否定そのものにつながる。

 となると、母のしてきたことは、信仰ではなく、信心。もっと言えば、「迷信」ということになる。

 今でも大黒様はもちろん、稲荷様を信じている人は多い。私には、それらがどういうものかはわからない。わからないが、信仰というのは、(教え)に従ってするもの。利益や、損得を考えてするものではない。「これを拝めば、願いがかなう」「お金がもうかる」というのは、信仰ではない。その多くは、迷信と考えてよい。

 そんなことに(力)を貸す神様や仏様など、いるはずがない。

 ・・・というようなことを、私は、すでに子どものころ、考えていた。「Aさんの家が、信仰によって繁盛するなら、その分だけ、同業者のBさんが、衰退するだけではないか」「もし、そうなら、その神様(仏様でもよいが)は、まちがっている」と。

 ずいぶんと回りくどい言い方になってしまったが、その一方で、神様や仏様に頼らず生きていくというのも、たいへんなこと。毎日、断崖絶壁の淵(ふち)を、恐る恐る、歩いているようなもの。そういった不安感が、いつも、闘わねばならない。

 このところワイフとこんな会話がつづく。

「初詣は、どうする?」
「どこに、しようか?」
「正月は混雑するから、今年も、年末に、どこかへ行こうか」
「そうねえ。どこにしようか?」と。

 しかしこういうのは、信仰とは言わない。自分でも、それがよくわかっている。つまりは、気分転換? それとも、気休め? ただの行事? 

(付記)

 夫婦でも、親子でも、社員でも、「もう、何も話すことはない」「話し合っても、無駄」という状態になったら、おしまい。どこかの離婚相談員の女性も、以前、そんなようなことを書いていた。たがいの心が修復不能なほどまで離れてしまうと、人は、そうなる。

 つまりある一線を越えると、人は、自分の心を、どこかへ投げやってしまう。そしてその世界で、固い殻(から)をつくり、その中に閉じこもってしまう。長い時間をかけて、そうなる。10年とか、20年とか、そういう時間をかけて、そうなる。その殻を溶かすのは、容易なことではない。ふつうは、不可能。

 が、世の中には、節介焼きの人がいる。他人の人間関係の間に、ズカズカと入り込んできて、説教したりする。「夫婦だから……」「夫だから……」「男だから……」と、安っぽい、『ダカラ論』をぶつけてくる。「何とかなるでしょう」「子どもがいるでしょう」「離婚しても、何も残らないわよ」とか、何とか。

 私も似たような経験を、何度かしたことがある。で、私のばあい、そういう人たちとは、絶縁することにしている。それなりの人ならまだしも、またこちらの事情をよく知っている人ならまだしも、そうでないなら、そのまま絶縁することにしている。

 つまり「話しても、無駄」。もっと言えば、「時間の無駄」。だから絶縁することにしている。(ちょっと、冷たいかな?)





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最終更新日  2007年12月11日 04時07分37秒
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